第69回から第71回で取り上げました「荒涼館」(Bleak
House)の作者ディケンズ(Charles
Dickens)は、今から200年前の1812年に生まれ、今年は生誕200年を記念する行事が世界中で行われています。ディケンズは1870年に亡くなりましたが、その翌年の1971年に生まれ、1944年に亡くなったホウルズワース(Sir
William Searle Holdsworth)は、高名なイギリスの法制史家です注1。このホウルズワースが、1929年に「法制史家としてのチャールス・ディケンズ」という小冊子注2を出版しています。この中でホウルズワースは、つぎのように述べています注3。
− チャールス・ディケンズの小説には、法律および法律家に触れているものが多い。中には法律および法律家が重要な役割を演じているものがあるが、とくに「荒涼館」(Bleak
House)は全体が法律および法律家に覆われている。ディケンズは1812年に生れ、彼の小説は1835年から1870年に執筆されているので、彼が観察し叙述した法律および法律家は19世紀の初めの3分の2の時代の法律および法律家である。この時代は今や歴史としての過去となり、法制史およびその他の面で、歴史家の関心の対象をなりつつある。私は本書において、ディケンズが彼の時代の法律および法律家の様々な様相を観察し叙述した結果が、その時代のみならず、それ以前の時代の法制史の研究にとって、貴重な資料となっていることを示そうと思う。・・・(中略)・・・ディケンズが描いた彼の時代の裁判所、法律家および法律が貴重な資料となっていることには2つの主な理由がある。1つは、そのような情報が他の資料からは入手できないことであり、他の1つは、ディケンズという類まれな観察力をもった人間が、生の情報に基づいて、彼の時代の裁判所、法律家および法律を描いていることである。法制史家にとって、いや、およそ歴史家にとって、対象としている時代の雰囲気を再現することは、常に困難である。法律の条文、下された判決、教科書から、現実にどのような事柄が行われたかの記録は入手できる。これらの記録から、たとえば、一定の管轄権を有する裁判所が創設され、機能し始めたとか、法律家が訓練を受け、団体を組織し、特別な方式で裁判を行ったとか、いろいろな法原則が宣明され、一定の方向に展開して行ったとか、などの事柄は理解することができる。しかしながら、これらの記録からは、たとえば、その時代の人々がそれらの事柄をどのようにして処理したかの説明とか、その人々の実像はどのようなものであったかとか、その事柄の背景または実際の場面に対するその時代の人々の印象はどのようなものであったか、などの情報を得ることは困難である。このような説明、実像、印象などの情報が無ければ、歴史の叙述はほとんど生気のないものになってしまう。・・・(中略)・・・確かにディケンズは法律家ではなかったから、細かな専門的な法原則に余り関心がなかった。・・・(中略)・・・ディケンズの関心は、法律が執行される仕組み、法律を執行する人間、このような人間の生活実態、その時代の人々に対する法原則の実際の効果にあった。だからこそ我々は、彼の小説から法原則の人間的側面および実際の効果に関する説明を得るのである。このような説明こそは法制史家にとって必須のものである。彼の説明の価値が高いのは、ディケンズが類まれな観察力の持主であったこと、そして自分自身の体験に基づいているからである。−
ホウルズワースのこのような立場は、私のウェブサイト(http://www.otsukatax.jp)で引用しているシンプソン教授注4の「法考古学」の立場と同じです。「つまり、法律図書館にある法律的文献ではない証拠を見つけて、そのような外的証拠に基づいて、これらの判決文を法の発展段階における歴史上の出来事として理解しようと試みるのである。」という訳です。それでは次回(第73回)からは、「法律図書館にある法律的文献ではない証拠」の1つとしての「荒涼館」(Bleak
House)を見ることにしましょう。