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林川眞善の「経済 世界の

第12回 安倍晋三は、高橋是清になれるか

2013/7/28

林川 眞善
 

はじめに: 安倍晋三を勇気づける先人

 7月23日、政府は7月月例経済報告において景気は‘自律回復に向けた動きがみられる’とし、3か月連続で景気判断を引き上げました。云うまでもなく4月以来進められてきた‘異次元の金融緩和’、‘大規模な本年度予算の実施’というリフレ戦略の展開で、デフレ脱却の道筋が見えてきたと言うものです。で、次の課題はその効果が実体経済に及ぶつまり持続可能な成長を確かなものとしていく成長戦略の如何ということになる処です。

 つまり、ケインズ流の金融財政政策による総需要政策を展開し、同時に成長戦略として供給サイドの構造改革を進めていく事、で日本経済の本格回復を狙うシナリオが緒に就いてきたと言うものです。
この需要サイドに向けられる積極財政政策、供給サイドに向けられる構造改革政策が同時に展開されることなど、これまでの経験にはなかったことだけに、いわば実験とも言える展開であり、その推移は世界が注視する処となっています。それだけに最高責任者たる安部首相が何処まで、腹をくくってやり遂げるか、が問われる処です。

 ここで、この種政策展開は経験がないこと、としましたが実は今からおよそ80年前の昭和初期、当時デフレ下にあった日本経済を積極財政の展開を通じ、つまりリフレ政策でデフレからの脱却を果たした政治家がいたのです。その名は‘高橋是清’、総理大臣、7回(兼務を含む)の大蔵大臣を経験した政治家です。

 その彼は‘事態’の経過と共に、軍靴の音、高まる環境にあって、財政規律の確保を図るべく膨張する軍事費の削減に必死に取り組んだのです。そして、その結果は軍部の不興を買い、ついには青年将校らが決起した反乱(2・26事件)に遭遇し、一命を落とすこととなったことはよく知られる処です。しかし、デフレからの脱出を果たした‘時の蔵相’高橋是清は、彼の行動様式は以下で見る処ですが、信念に徹した政治家としてその名を残す処となっています。

 さて、アベノミクスを介して日本経済の再生を目指す安倍首相の政策行動はこれまで、その高橋是清のそれに倣うがごときで、時に、安倍自身、「高橋は私を勇気づけてやまない先人」とコメントしています。では、安倍晋三は平成の高橋是清になれるか、斯界の関心はいまや、そこに集まってきている処です。

 そこで、今回は、R.J.スメサースト著「高橋是清:日本のケインズ―その生涯と思想」(東洋経済新報社、2011年)をベースに、‘「金解禁」の停止’、‘積極財政の導入’で脱デフレに成功した高橋是清の世界をレビューし、併せて、その経験から見るアベノミクスの可能性について、以下シナリオを枠組みとして、考察したいと思います。

1.高橋是清の財政政策
 
(1)デフレ不況からの脱出 、(2)軍靴の犠牲となった高橋財政
2.高橋是清という人物 (その1)−「13の原則」
3. 高橋是清という人物(その2)
4.安倍晋三は高橋是清になれるか 
 
−‘岩盤’に身を挺するということ
おわりにかえて
 

1.高橋是清の財政政策

 (1)デフレ不況からの脱出  

 1931年12月、これまでの民政党政権に代わり、政友会の犬養毅内閣が成立し、その際、大蔵大臣に再び招聘されたのが高橋是清でした。(再びとは、彼は6回の大蔵大臣、一度の総理大臣(兼大蔵大臣)を経験しており、当該蔵相については、彼は最後のご奉公として受けたと言われています)

 高橋が大蔵大臣に就任した時点での日本経済の状況は、物価は急落し、失業は増加し、農家は農産物価格の暴落で大打撃を受け、鉱工業生産は停滞し、新規設備投資もほとんど行われていない状況にありました。こうした状況に対処するため、高橋は就任後、僅か半年余りの間に、前政権(浜口内閣)の保守的な緊縮政策(注)を劇的に転換させ、一連の非伝統的な財政金融政策の導入によって景気刺激をはかり、日本経済を回復へと導いたのです。

(注) 井上準之助の緊縮財政:1929年7月、金輸出解禁(第一次世界大戦時、各国は金兌換を停止)の方針を掲げた浜口内閣が誕生、その際、大蔵大臣に就いたのが井上準之助。彼は直ちに緊縮財政への転換と国民への倹約を呼びかけ、「金解禁で明るい社会が実現する。好景気になる」と、翌1930年(昭和5年)1月に金輸出の解禁(金本位制への復帰)を敢行した。しかし金解禁の初日(1月11日)からその論理は破綻、つまり金の海外流出が起こり、翌年に入るとその流れは一層激しくなっていったのです。当時、アメリカから始まった世界恐慌の影響を受け国際収支は悪化、日本の景気も急速に悪化し、昭和恐慌と呼ばれる深刻なデフレ不況に陥った。これに対し在野にあった石橋湛山、他は井上蔵相の財政政策を批判し、インフレ誘導によるデフレ不況克服を訴えています。 尚、1930年(昭和5年)11月11日、昭和6年度の緊縮予算を決定した三日後、浜口首相は東京駅で右翼の活動家による凶事に遭い、結果、浜口は辞任、若槻礼次郎が後継内閣として浜口・井上の緊縮財政を踏襲したのです。

 まず金融政策面では、彼は前政権が敢行した‘金輸出解禁’を停止し、1932年1月には「銀行券の兌換停止に関する勅令」の公布施行により金兌換が停止され、日本は金本位制から離脱、つまりは管理通貨体制に移行することで、「金の保有量」に制約されずにflexibleに積極財政をはかる事が可能になったと言うものでした。

 つまり、日本経済を金本位制から離脱させ、ドルとポンドに対して円を切り下げ、公定歩合の引き下げによって金利の低下を促し、日銀券の発行限度額を引き上げる法律を導入したのです。この結果、日本の輸出は好調を持続しました。更に、需要を刺激する為、政府支出を拡大させることを通じて景気変動を平準化させる財政政策を導入しています。又、財政の不足は、低利の国債を日銀に直接売却することによって埋め合わせることとし、政府支出は通貨流通量の増加を通じて有効需要を拡大させていく積極財政(注)を進めたのです。まさに、アベノミクスでいう‘異次元の金融緩和’と‘大幅の財政出動’です。

(注) 高橋是清の積極財政:1932年5月、5・15事件で暗殺された犬養首相の後継として斉藤実海軍大将が首相就任。引き続き大蔵大臣となった高橋は、6月1日「昭和7年度一般会計歳出ノ財源ニ充ツル為公債発行ニ関スル法律」を議会に提出。我が国初の日銀引き受けの国債発行を実施し、デフレ脱却を狙った積極財政政策に乗り出したのです。尚、積極財政による経済政策を乗数効果として理論的に体系づけたケインズの「一般理論」の発刊が1936年、それに先立つ4年前に既に日本で実証されていたことになるわけで、時に是清が日本のケインズとも称せられるのですが、ケインズの政策思想が明確な形をとる以前の段階であり、当時の高橋がケインズ思想の影響を受けた形跡はないのです。

 こうした事実上のリフレ政策(注)を断行することで、輸出の拡大と相まって生産と雇用を刺激し、一方、消費者はより多くの支出をするようになり、日本は不況から回復し始めたと言うものでした。アベノミクスも、まさにこのシナリオを行くものです。

(注)リフレ政策:年率1〜2%の低インフレ率を実現させる政策で、「インフレターゲット + 無制限の長期国債オペレーション」を指します。リフレーションという言葉の初出は1932年2月13日付の英経済誌、The Economist の記事 ‘Reflation or Bankruptcy’ とされています。尚、鈴木隆(後出)によると、「日本では、石橋湛山が昭和6年以降の講演で、高橋是清の行った政策をリフレーションだと言っている」由。

 尚、序でながら、以上で見た昭和初期の‘金解禁’を巡る高橋・井上論争は、日本経済の転換期を印す歴史的な論争として有名ですが、その本質はデフレからの脱却であり、今日的に言うなれば、国債のバラマキか、それとも財政緊縮か、つまりは、大きな政府か、小さな政府か、ということで近代国家における政策論争の先鞭となったものと言える処です。

(2)軍靴の犠牲となった高橋財政
 
 さて、高橋の積極財政は成功するかに見えていました。しかし軍部予算の急膨張によってバランスを失い出し、既にインフレの兆候も出てきたこともあり、1936年度の予算編成では高橋は公債漸減方針を強調すると共に、財政の健全化堅持の為、軍事費の膨張を抑制せんと必至に動くのでしたが、軍部との対立が頂点に達したことで、若手将校が決起したクーデターに遭遇し、その凶弾に倒れたのです。2・26事件です。

 この事件を契機に、軍部の政治への台頭を許すところとなり、日本は世界経済の不況に流される形で、不幸な世界大戦へと進むこととなったのです。経済の再生には成果を上げた高橋でしたが、その意味では、彼は大きな失敗をして しまったという事になるのでしょうが、・・・・しかし、1936年度予算編成時では、彼は軍部からの激しい抵抗に遭いながらも軍備予算を抑制し、更には削減しようと最後の力を振り絞っていたと伝えられています。そして、自らの信念のために命を落とすという結果になってしまったのです。
 日本格付け投資情報センター社長 の鈴木隆氏は自著「高橋是清と井上準之助」(文春新書、2012年)で、「命を懸けて自己の政策を貫く、まず、そこから大政治家の仕事は始まる」と言うのです。

 ・・・・・さて、安倍晋三は高橋是清になれるか、ということですが

 まず、アベノミクスがリフレ政策を実行したところまでは、まさに安倍晋三は‘是清の世界’をなぞるが如きで、同じ軌道にある処です。そこで、その後のアナロジーですが、高橋は増殖を続ける軍事予算に手を付けようとして殺害されました。一方、現在、我々が直面している大きな財政問題は少子高齢化を背景として膨張を続ける社会保障費です。社会保障費に手を付けて殺されることはないでしょうが、選挙の洗礼を受ける事にはなる筈です。そこで‘昔は軍事費’、‘今は社会保障費’のアナロジーです。つまり軍事費の膨張はその後、敗戦という破綻に至って初めて止められたという事ですが、社会保障費の膨張は今後何によって止められるのか、真剣に議論する必要があるというものですが、仮にそれに失敗すると、そこには敗戦と同じ悲劇が待っているのではないか、ということです。

 そこで、安倍晋三は身を挺してでも、そうした事態を阻止する決意と気概があるか、という事ですが、それこそは、いま、まさにアベノミクスに問われるポイントというものです。
 はたして本当の意味での高橋是清になれるか、そういった意味からも、彼の今後の行動様式が注目されると言うものです。
 

2.高橋是清という人物 (その1)

 高橋是清(1854−1936)は、ではどんな人物だったのか。ここで、安倍晋三が是清になりうるか、その検証のためにも前出、スメサーストに即し、彼の辿った財政家としての足跡を見ておくこととします。

 高橋是清は1854年、幕府御用絵師であった川村庄右衛門(47歳)と、きん(16歳)の間にできた非嫡出子で、誕生後は仙台藩足軽の高橋覚冶の養子となっています。1864年、10歳の時、仙台藩の意向(薩摩藩、大久保利通の影響もあり)を受ける形で横浜の米国医師ヘボンの私塾で英語を学ぶ事になるのですが、そこで培われた英語力が世に出ていく上での最大の武器となるのです。1867年(慶應3年)には勝海舟の息子・小鹿と米国に留学、1868年帰国後は14歳という若さで大学南校の教師に就いています。そして、その後、財政家の道を歩むことになるのです。

(1)財政家 高橋是清の始まり:彼の財政家としてのスタートは1881年に新設された農商務省での‘日本初の商標と特許に関する法令の起草とその改訂’作業に始まるものでした。時に26歳。初の大仕事ながら首尾よく大任を果たします。当時、欧米諸国からは日本が欧米の特許や著作権を無視しているとの非難が高まっていたことで法整備の必要に迫られていた事情があったのです。そこで当時既に英語力について評価が高かった彼が招聘されたと言うことですが、この仕事を通じて後に名声を高める問題解決能力を高めていったと言われています。

 特許法は1885年7月に施行され、高橋は初代の専売特許局長に任命されていますが、その直後の11月から1年間、特許、著作権の改定に向けた現地調査のため欧米各国に出張していますが、その間、調査目的以外のことについても貴重な見聞を広めたと言われています。
 尚1889年に特許局長を辞め、ペルー(カラワクラ)に渡り銀鉱山の経営に乗りだします。その際は、この鉱山をもって日本人による一連の海外事業の鏑矢としたいと考えていた由です。しかし準備不足もあり事業に失敗しますが、この失敗経験がその後の人生に貴重な教訓を得たと言うのです。

 1892年4月、ペルーから帰国した高橋は当時の日銀総裁 川田小一郎に請われて、日銀本店の新築工事の現場監督に就任します。日本初の大規模西洋建築という事もあり、工期が遅れ、予算超過、設計トラブルなど問題を抱えていたプロジェクトでしたが、今言う現場主義を徹底して問題をひとつずつ解決し、最終的には計画通りの予算で建物を完成させています。その後、正式社員となり、日銀西部支店長に任命されます。時に39歳。ここから金融財政の一本道を行くことになり、1899年には44歳で日銀副総裁に就任します。彼の本領は英語力と改革への取組で、現場主義の問題解決能力がつぎつぎと成果に繋がっていったのです。

(2)国際的スケールをもった財政家 高橋是清:彼は日銀副総裁のまま、財務官として1904年から1907年にかけてロンドン、ニューヨーク、ヨーロッパ各国を駆け巡り、日露戦争の戦費調達に携わるのですが、この頃には、高橋は元老からも一目置かれる期待の新星となっていたのです。
 スメサーストは「ロシアとの戦いに勝利するために日本が必要としていた資金の調達に成功したことで、一気に政界の頂点に上り詰める事となる。・・この恐れを知らない英語に堪能な中堅官僚は、物事を成し遂げることが出来る人物であるという事になり、評価は一変。この任務についていなかったら、後年の金融界や政界における指揮者としての高橋の経歴はかなり異なったものとなっていたろう」と述べています。

 1911年、高橋、56歳の時、松方らの支持を得て日銀総裁に就任します。そして、1913年には、海軍大将山本権兵衛首相に請われて大蔵大臣に就任するのですが、これが政界への入り口となったのです。

(3)現場主義の財政政治家 高橋是清:彼が大蔵大臣として取った財政政策については前節で触れた通りですが、ここで注目すべきは、彼が取ってきた意思決定とその具体化に向けた姿勢でした。高橋は市場情報に依存しつつ現場で意思決定することの重要性、そして効率性を認識し実行してきたと言われていますが、要は、政策の意思決定権限を現場委譲、分散化すると共に組織改革に取り組み、組織の規律を重視して成果に繋げていったという事でした。

 因みに、昭和恐慌以来の不況で疲弊した農村救済問題は、当時政治的な焦点となっていましたが、高橋が、蔵相として斎藤内閣の下で実施した農村経済更生政策は、今日から見ても、斬新かつ具体的なものでした。即ち、財政による救済と相まって「農村漁村みずから奮起し」、「官民一致の協力により、統制ある組織的な農村経済更生の施設を樹立し、これが確実なる実行を期する」としているのです。その方針は土地の利用配分、労力の利用、農産物の販売、肥料その他農業経営用品の供給改善、農業経営の改善、農業金融の改善、負債整理等々について、農村経済更生計画を樹立させ、これを実施することに拠り自力更生を図らんとするものだったのです。更に農村リーダーを旧来の地主から自作農中堅層に切り替えること、従来の肥料商や米穀商の力を抑制し、産業組合を中心とした経済更生を図るなどの新しい方向が打ち出されていたのです。もっとも、これら新機軸は戦争で中断され、戦後になって本格的開花を見る事にはなったのですが。

 尚、彼は、政治家として、以下の「13の原則」を信条として事にあたってきたとされていますが、それらは云うまでもなく、彼自身の経験に基づくものと云うものです。

 [ 13の原則 ]

  1. 政府の責務は、自国経済成長の促進をはかること

  2. 経済発展の目的は、国家の財政基盤の強化と国民の生活水準の向上にあり

  3. 国の富と国民所得の増大には労働者の生産性を向上させ、その利益を分かち合う

  4. 所得分配については平準化の為、累進所得税を採用する

  5. 政府は国民の生活水準の向上と国民が国の統治に役割を果せるようにする

  6. 政府は、特に不況時、歳入以上に歳出を増加させ、自国通貨を減価させることによって、財政金融政策を通じて経済成長を刺激する

  7. 政府は経済が過熱している場合、財政収支の均衡、財政黒字の計上、自国通貨の切り上げによって財政金融政策を通じて需要を縮小、インフレを抑える事が出来る

  8. 過剰な軍事支出は、国の健全性のみならず、国防そのものも危険に晒すことになる

  9. 外交政策は文民が主導権を握り、軍人はこれに追随するべき

  10. 日本の外交、金融政策は英米中心の枠組みと強調しながら運営されるべき

  11. 日本の他国との競争は、帝国建設や戦争を通じてではなく、貿易を通じて行う

  12. 中国との関係において日本は、先行き日本にとって世界における貿易上の競合相手ではなく、むしろ貿易相手国となりうるという意識を持って、強力な統一された中国の建設に向けて努力すべき

  13. 持続的な経済成長にとって必要なのは、中央集権的な意志決定ではなく、市場における情報。

以上からは改めて、是清が極めてリベラルな思想の持ち主であったこと、そして今言う処のグローバルな感性をもって日本国の進むべき方向とガバナンスの在り方を常に考えていた人物であった事が窺えると言うものです。
 

3.高橋是清という人物(その2)

 高橋は、実は正規の教育を受けていません。しかし、その生い立ちと世界を股にかけた実務の経験に裏付けられた現実主義的な考え方と問題解決能力、更にその基礎となった自身を含め物事を対象化して観察する卓越した能力を有していたという点で、明治大正期に活躍した人材の中でも稀有な存在であったと言えます。仙台伊達藩の足軽身分という出自のために、封建末期の古典教育とは無縁であったこと、さらに高橋と同世代のエリート達が受けた近代の正統教育に囚われなかったことが幸いしたと言うことでしょうか。普通でない出自、幼少時から10代の時期に尋常でない経験をし、多様な人脈のなかで、物おじしない胆力と人を見る眼が研ぎすまされていったという事と言えます。

 尚、日本は高橋財政によって昭和恐慌からの脱出に成功し、この間(1931/12~1936/2)の実質成長率は7.2%、インフレ率2%という良好な成果を上げています。その成果は金本位制からの離脱と日銀による国債の引き受けにあるとよく言われる処です。しかし、より評価されるべきは、高橋が意思決定者として直接指揮をとったこと、更に彼の問題解決能力こそが最大の成功要因と言えるのでは、と思料するばかりです。
 

4.安倍晋三 は高橋是清になれるか
     
― ‘岩盤’に身を挺するということ

 さて、今月21日の参院選の結果は、選挙前の予想通り、自民党の圧勝に終りました。この結果、これまで問題とされてきた衆参両院におけるねじれ現象は解消されることとなり、安倍政権は長期安定政権となることが確実となりました。で、今回の勝利はアベノミクスが国民から信任されたという事となるのでしょうか。

 冒頭でも触れた通り、アベノミクス第一の矢、第二の矢、つまりリフレ策により経済は長きに亘るデフレからの脱出にむけ動きだしました。その限りにおいて、安倍首相は‘高橋是清の世界’を実践したと言え、内外斯界の評価は極めて高いものがありました。
 しかし、そうしたリフレ効果を経済の本格成長に繋げていくものとして打ち出された‘第三の矢’とされる「日本再興戦略」、つまり成長戦略に対する評価は概ね低いものでした。では何が問題だったということでしょうか。

 安倍首相は、‘日本経済再興’のカギとなるのが産業の‘新陳代謝’だとし、この新陳代謝を阻害してきた諸規制の撤廃等、規制改革こそが成長戦略の一丁目一番地だ、とこれまで叫んできています。しかし、出された戦略には、期待されていた規制改革等について、具体的な改革提案もないままに終ってしまっていたということに、国内はもとより、海外からも失望のコメントが届くといった‘様相’にありました。

 前回の論稿でも指摘していますが、例えば、農業について言えば、農業で自由な競争を縛ってきた規制を変える改革(とりわけ農協の改革にも繋がるような改革)を進める意志があるのか、強い農業をどう築くのか、その説得力の無さが不評を託ったと言うものです。
 勿論、集票マシーンとされてきた農業関係団体への配慮がなせる結果であることは言うまでもありません。つまりは、日本の産業をどのような姿に持って行こうとするのか、言うなればビジョンを持つことなく対処療法的な施策の提示に終始していたことに不興を買ったと言うものです。それだけに今、改めて一丁目一番地への具体的取り組みを示して行く事が求められるという事です。

 高橋是清は、前述の通り、財政規律の堅持のため、今日いう処の‘岩盤’たる‘軍部’に果敢に対峙しました。その彼は軍部の凶弾に倒れてしまうと言う結果になってしまったのですが、さて今後、安倍首相は、これまで見送られてきた議論を深め、要すれば高橋のごとく身を挺して行動していく用意があるか、これが問われることになると言うものです。高橋の場合は財政規律という使命の下、当時の岩盤とも言える軍部に信念に燃え対峙しました。さて、安倍は岩盤規制と言われる規制とその周辺の‘岩盤’に身を挺してでも当たる覚悟があるのか、という事です。それだけに、新たな取り組みが具体的に、政治行動として現れてきた時、まさに政治家安倍晋三は‘是清になる’と云うものです。

 なお、こうした批判を踏まえ、政府の規制改革会議では作業部会を5つ(「グローバル化」、「農業」、「健康・医療」、「雇用」、「創業」)に再編し、更なる議論を目指す、と伝えられています。であれば、そこでは目指す政策の軸がぶれることがなく、従って岩盤組織と言われる組織の利害にとらわれることなく日本経済の将来を見据えた戦略的な取組への議論を期待する次第ですが、そこで、この際はあえて以下、提言をしておきたいと思います。

 つまり、(1)成長戦略の目標は「革新により新成長産業分野を創出する」という事であり、その為の研究開発投資、競争の促進策(中期、中期)を策定することが肝要である事、同時に個別産業の保護育成策ではないことを明確にすることが不可欠と思料されます。次に、(2)規制改革は「革新」と「生産性」と結びつけて議論することが不可欠ということです。つまり何の為の規制改革か、改めて明確にしていくことが不可避なのです。また(3)既存部門の活性化策を戦略的に推進すること、と同時に、中小企業政策の徹底的見直しを行うことも不可欠と考えます。そして(4)少子高齢化社会にあって財政規律確保の視点から前述、社会保障費を如何に確保していくか、timelyにその筋道を明確にしていくこと、を求めておきたいと思います。

 もとより、今後の内閣改造に備えては、再生戦略の要所(閣僚)に覚悟と実力のある人材の配置を大前提に、民間人・学者を含め選考範囲を広げ、適材適所を貫くこと(これこそが最優先の課題なのですが)、そして、会議、委員会の乱立は避けること、そして同時に、司令塔とその役割を改めて明確化していくべき、を指摘しておきたいと思います。
 

おわりにかえて

 処で、アベノミクスが落とし処とするのが‘グローバル経済で勝つ’です。これは単に海外市場の取り込みを図っていくという事でなく、日本としてグローバル経済と共に、如何に生きていくか, その為に新たな枠組みを構築して行く事にある筈ですし、少子化、高齢化が進む日本の今後を考えていく上での基本軸となる処です。

 こうしたコンテクストに照らすとき、今回の選挙戦を通じて‘外交’という文字が全く消えていた事が気がかりと映ります。もっとも外交は票に結びつかないという事なのでしょうが、米中二大経済大国の間にあって、日本の位置付の変化が語られる今、時に安倍首相の国家主義的発言も気がかりとなる処ですが、‘世界のなかの日本’を再生していく為にも、今一度、高橋が体現してきた政治家としての矜持を学習し、パブリック・デモクラシー、つまり国民の理解を得て、日本経済の再構築をめざす姿勢を、具体的に示していくべきと思料する次第です。

 改めて、構造的に成長力を高める政策を実行していくうえでは、いろいろ抵抗(岩盤)のある処です。が、この際は、政治と経済の失われた20年と決別し、‘いま’を新生日本づくりへの転機として、従って、そうした抵抗を恐れることなく、経済改革の断行を図るべきであり、いまがまさにチャンスなのです。身を挺して‘抵抗’と対峙し、説得し、日本経済の‘再生’が確実になった時、その暁には、安倍晋三は‘高橋是清になる’のです。

以上 

 


 

著者紹介
三菱商事、三菱総合研究所を経て、帝京大学教授、多摩大学大学院教授を歴任(専門分野:戦略経営論、グローバル経営論)

 

 

 

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更新日:2013/12/01