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浜田 マキ子氏 プロフィール
1960年 |
森村学園高等学校卒業後、日本航空入社。
10ヶ月間スチュワーデスとして勤務。 |
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1965年 |
東京大学
東洋史学科 卒業後、参議院議員
植竹春彦(叔父)の秘書となる。
浜田卓二郎(現:弁護士 元衆議院議員)と結婚 |
1973年 |
芝アカデミー(フィニシングスクール)を設立。学長就任
(名誉学長 岸 信介 元総理大臣、理事長 植竹春彦(同上)) |
1990年 |
衆議院議員総選挙に旧埼玉5区から無所属で立候補
テレビ朝日『サンデープロジェクト』コメンテイター
ハーバード大学外交センター フェロー |
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1991年 |
東京都知事選挙に立候補 |
1993年 |
TBSテレビ『ビックモーニング』金曜日の編集長
衆議院議員総選挙に旧埼玉2区から自由民主党公認で立候補
2003年
衆議院議員総選挙に東京1区から立候補 |
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現在 |
株式会社P.R.D(国際コンサルティング会社)Chairman
ロンドン国際研究所(IISS)正会員
中国生態学会副会長
マキコデザイン株式会社 代表取締役社長
ジョージワシントン大学 客員教授 評議員
クオリティマガジン・月刊『ぺるそーな』発行人 |
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片岡:
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第15回の右脳インタビューは浜田マキ子さん(注1)です。本日はご多忙の中、有難うございます。浜田さんは、月刊『ぺるそーな』(注2)の発行人を務めるほか、多方面にわたってご活躍ですが、まずは国際的なご活動の側面からお話をお伺いして参りたいと思います。宜しく御願い致します。
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浜田:
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国際的な視野を広げたのはやはり渡米の経験からだと思います。1990年に夫(浜田卓二郎(注3))の選挙戦の一環として私も衆議院選挙に立候補致しました。選挙には落選したのですが、それが縁でサンデープロジェクト(注4)へ出演し、米国側の目に留まりハーバード大学
外交センターのフェロー(注5)として渡米する機会を戴きました。
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片岡:
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どういった制度なのでしょうか。
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浜田:
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ハーバード大学で1年間フェローとして研究や指導に当る他、全米を回って州知事や財界人、学者などと交流する機会も多く設けられていました。私の年は全21名でしたが、各国からその国の将来のリーダーになる人物が招聘されます。例えばイギリスからは次期外務次官、次期防衛次官という方が職位の任命を受けた上で派遣されました。女性は私のほか、イギリス人でフランスのバリバ銀行の重役のMrs. Eleanor Margaret King、ドイツ人で外交官のMrs. Angelika Völkel、アメリカ空軍の大佐で情報将校のMrs. Tiiu Keraの4名で、皆様からは4witches(4人の魔女たち)と呼ばれていました。彼女たちとは今でもよく連絡を取り合って集まったりしています。
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片岡:
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素晴しい制度ですね。それに派遣する側も幹部候補者でなく、国家や組織の中枢を実際に担う人材を一年間も派遣するのですから、国としての深みを感じます。日本の場合は如何でしょうか。
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浜田:
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日本からは官僚の参加が中心ですがイギリスのような最高幹部を派遣することはなく、認識は低かったようです。米国側が民間人の私を選んだのは、今後日本では女性がメジャーとなって政治の方向を決める時代が必ず来ると考えたからでしょう。そこでサンデープロジェクト等に出演していた私に声が掛かったようです。また家系も考慮されたものと思います。
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片岡:
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大学ではどのような活動をなさったのでしょうか。
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浜田:
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日本は2000年も前に多民族国家を実現し、文化となって絡み合い、日本民族が形成されました。これはアメリカにとってもこれからの国のあり方を考える上でヒントとなるものと思います。そういう視点から発言し、日本の国家戦略や防衛問題等をテーマに論文も作成しました。実は、都知事選にはアメリカから立候補を表明したのですが、その際の政策にも反映させました。勿論、ハーバードの仲間も手伝ってくれました。その他、プライベートでは、よくホームパーティーを開いていろいろな皆様をお招きしました。そのうち教授たちの中でも話題になって招待が来るのを楽しみに待って下さっていた方もいらしたようです。
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片岡:
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ハーバード時代も含めて、各界を代表する方々とお付き合いされていらっしゃいますが、そういった方々には共通点のようなものがあるのでしょうか。
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浜田:
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一芸に秀でた人特有の自信でしょうか。ところで、超一流といわれる方たちに、その世界に入った理由をお聞きしますと、『何となく』という答えが返って来ることが多くあります。仲間の中で一番鈍いといわれていた人もいて、だからこそ無心で多くの経験を積む機会があったそうです。例えば、医学部の偉い先生は、難しい手術の時にはどうしても神経質になりますので、秀才を側には置きたがらないそうです。自分をガードしているのです。ですから、基本的な能力があれば、寧ろ鈍くて人に使われやすい方が貴重な場を経験できて才能を伸ばす事ができます。これは会社でも同じだと思います。元々学ぶということは『まねぶ』つまりマネから来ています。徹底してマネをしながら、慣れ親しみ、修練しているうちに、ある時、自分で作ってみようという勇気が湧き、独創性が生れます。そして自信を持って社会とかかわります。
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片岡:
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マネし尽くすことから始まるわけですね。
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浜田:
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いくらマネしても人間ですから同じにはなれません。そこに本当の個性が現れます。女性にとっては、こうした事は特別ではないのですよ。キレイは一芸ですから。女性は本能的にキレイになりたいという気持ちを持っています。心の中に自分なりのお手本を持っていて、無意識のうちにマネをしています。自分を磨いてキレイになる努力をして、勇気を持って表に出ます。そうすることでキレイになることが出来ます。キレイになると自然と自信が湧きます。こうして人生で一番大切な勇気を手にすることができるのです。電車の中でお化粧をする女子高生が話題となることがありますが、彼女たちだって好きな人の前では決してやらないはずです。本能的な学習力の現れですから、彼女たちの行動を責めるよりも、そういった規範を示し守ることが出来ない社会に問題があります。どういった国を作るのかというはっきりした目標がないからです。女性は政治的な面だけでなく、子供や夫への影響力も強く、また消費の面でも鍵を握っています。先ほど、日本は女性が国の方向を決める時代になると申しましたが、それだけ女性にはしっかりとした判断が求められます。マスメディアが発達し、またインターネットを通じて情報が溢れる中で、きちんとした判断をするためには、まず自信を持つことが必要だと思います。そのためにも女性なら誰もが持っているキレイになるという一芸を磨くことで自信と勇気を身につけて欲しいと思っています。
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片岡:
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一つの集団が自信を持つということは大変なパワーを生み出します。『キレイ』が作る日本の未来を楽しみにしております。それでは最後に浜田さんが目標とされている方などいらっしゃいましたらお聞かせ下さい。
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浜田:
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イスラエルのGolda Meir(注6)です。ウクライナ出身の彼女はアメリカのミルウォーキーで教師をした後、イスラエルの建国運動に参加、71歳でイスラエルの首相になった人で、ミュンヘンオリンピック事件(注7)は彼女の在位中の出来事です。
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片岡: |
事件の時は犯人グループの要求を毅然と拒否しますね。またモサドを使って報復活動を行ったともいわれています。賛否は分かれますが、このような重い決断をなさるには大変な勇気をお持ちだったはずですね。本日は貴重なお話を有難うございました。
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(敬称略) |
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−完− |
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インタビュー後記
日本の女性は一般的に諸外国に比べて美しさを積極的に肯定することに抵抗を感じる(注8)そうです(現実の消費行動は積極的です)。そうした建前を爽快に吹き飛ばす浜田さんですが、細やかな気配りが大変印象的でした。
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聞き手
片岡 秀太郎
1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。 |
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脚注
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注1 |
浜田マキ子ジャーナル
http://plaza.rakuten.co.jp/hamadamakiko
浜田マキ子のキレイのすすめ
http://www.hamadamakiko.com/
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注2 |
ぺるそーな
http://www.bnet-web.co.jp/perseuna/
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注3 |
浜田卓二郎 弁護士。昭和16年、鹿児島県生まれ 埼玉県在住。東京大学法学部卒業、大蔵省入省。公正取引委員会、国際金融局、大臣官房秘書課、主計局主査を経て35歳で大蔵省退職。昭和55年衆議院議員(自民党)初当選以降、衆議院4期、参議院1期を務め、衆議院社会労働委員長、厚生委員長、法務委員長、参議院行政監視委員長、外務政務次官、自民党副幹事長等を務める。
http://www.hamadatakujiro.com/
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注4 |
サンデープロジェクト(1989年〜)田原総一朗がホストを勤めるテレビ朝日系列の報道・政治討論番組で、強い影響力を持つ。
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/
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注5 |
The Weatherhead Center for International Affairs, Harvard University
http://www.wcfia.harvard.edu/
Fellowとは客員教授と同格、実務社会から任命されるものの名称
各自専門の実務知識によって研究・指導にあたる
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注6 |
Golda Meir (1898〜1978)イスラエル第4代首相(1969〜1974) ロシアのキエフ(現ウクライナ領)生まれ。1906年米国ウィスコンシン州ミルウォーキーへ移住。大学卒業後、教師として働く。1915年Poale Zion (Labor Zionist Organization)に加盟。1921年パレスチナへ移住。1924年にテルアビブに転居。1949年イスラエル国会議員に初当選。労働大臣、外務大臣を歴任。第3代首相レヴィ・エシュコルの死去を受けて首相に就任。1974年に辞任。
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注7 |
ミュンヘンオリンピック事件 ミュンヘンオリンピック開催中の1972年9月5日、旧西ドイツの都市ミュンヘンにあったオリンピック会場内のイスラエル選手村に、武装した黒い九月(パレスチナの過激派組織)のメンバー8名が乱入、イスラエル人選手とコーチの2名を殺害、9名を人質に取った。黒い九月はイスラエルに収監されているパレスチナ人234名の解放を要求。当時イスラエル首相だったGolda Meirは要求を拒否。イスラエル軍部隊の投入を西ドイツに打診するが、西ドイツ側は拒否、自国での解決を図った。しかしながら西ドイツ当局の救出作戦は失敗し、銃撃戦の末、人質となった9名全員及び警察官1名が死亡した。犯人側は8名のうち5名が射殺され、3名は逮捕された。しかしながらこの3名は1977年のルフトハンザ機ハイジャック事件で解放された。
イスラエル政府は報復としてパレスチナゲリラの基地を空爆、テロの再発を防ぐためにGolda Meirと上級閣僚で構成される秘密委員会を設置、情報機関モサドに対して暗殺を指示(神の怒り作戦)、実行したとされる(イスラエル政府はこの事を否定している)。
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注8 |
http://www2.unilever.co.jp/news/pdf/Dove_WhitePaper_digest0502.pdf
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(敬称略)
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片岡秀太郎の右脳インタビューへ
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