第16回 『 片岡 秀太郎の右脳インタビュー 』         
2007年3月1日
 
小川治兵衞さん 造園 植治 十一代目当主
 
 

十一代 小川治兵衞(小川治兵衛)事 雅史氏  プロフィール
 
1942年 九代目 小川治兵衞の次男として 生まれる。

1962年 京都市立日吉ケ丘高校 特別美術コース(日本画)を卒業。
1966年 京都市立美術大学  (現 京都市立芸術大学)を卒業。
在学中に新製作日本画本展入選及び京展入選する。 
造園 植治に勤務する。
1970年 十代目治兵衞より、十一代目治兵衞を受け継ぐ。
造園植治 十一代目当主として現在に至る。
著書 『植治の庭』を歩いてみませんか  監修 十一代 小川治兵衞 白川書院 2003年

 
片岡:

 
第16回の右脳インタビューは、造園 植治(注1)の当主、十一代 小川治兵衞さんです。本日はご多忙の中、有難うございます。植治は宝暦年間の1751年に創業した日本を代表する造園業者です。それでは作庭について、費用の面なども含めながらお話をお伺いしていきたいと思います。宜しく御願いします。

小川

伝統や文化というものは政治や経済と無関係ではありません。特に京都は政治の中心でしたので、戦乱の度に焼野原になり、

<洛翠庭園> 
 

その度に生き残った職人たちは時代に合わせた新しい文化をゼロから作り上げてきました。ですから『守る』事ではなく『新しく生み出す』事が京都の伝統といってもいいと思います。植治にも技術の伝承はありません。庭や自然への情熱や思い入れといったものを伝えます。つまり人づくりが大切で、そういう心を同じ環境の中でゆっくりと育んでいます。
 

片岡:

だからこそ250年もの間に渡って、数々の名園を生み出すことができたわけですね。
 

小川

庭というものは私共の作品ではなく、施主のものです。私共は、施主の興味、趣味といった意向を反映し、施主に喜んで戴けるように、居心地が良いように作庭しています。費用の面でも同じで値段というものはなく、施主が決めた予算にあわせて行います。庭造りで大切な事は、施主の気持ちに如何になりきれるかということです。逆に言いますと作庭には施主になりきるくらいの力量が求められ、庭だけを考えていてはだめなのです。例えば七代目(注2)は山県有朋公(注3)の別邸 無隣庵(注4)を手がけました。その時、山県公が何を京都に求めていたか。山口から世に出て、京都に庵を構える事ができるようになった誇らしさ。国政という厳しい世界を離れ、別宅で過す癒しの時間。そういったことを考えながら作庭したはずです。この時、山県公は、開放的で自然の美しさのある庭にしたいと考えていて具体的に三つの注文をしたそうです。一つ目は、『琵琶湖疎水(注5)の生きた水を使うこと』です。実は京の町には水がありません。例えば鴨川は季節によって簡単に干上がったり氾濫したりして疫病の元ともなっていました。湧き水のあるところは神社仏閣等が位置し、街中にはありません。また夏には水が腐ったり、ボウフラが湧いたりしますので、家相が悪いと家に泉水を作らないようになっていました。枯山水の様式はこうした水の悩みから生み出されたものです。また当時京都は、明治維新後の遷都による大不況下ありました。そのよう中かで、琵琶湖疏水の大事業はヨーロッパに習った国際文化都市を目指す近代化政策の一環として行われ、生活用水は勿論、水力発電や水運などの産業基盤に至るまで水の恵が齎されました。
 

片岡:

そういう意味でも『生きた水』だったわけですね。
 

小川

七代目もこの琵琶湖疎水を使うことが大変嬉しかったようです。二つ目の注文は『樅や檜、杉などを沢山使うこと』です。それまでの庭は松や槙といった普遍性や重厚さ現すような木を用いるのが常識でしたので、樅や檜、杉を主役にするということは斬新な考え方でした。また無隣庵は700坪もある広い土地でしたので、費用の面でも、高価な松や槙でなく安価な樅や檜、杉(松の10〜20分の1)を用いる事も必要でした。そこで、これらの木々を群生させた自然の形態を持ち込むことで、広い空間処理を実現しました。三つ目の注文は、『芝生の明るい空間を作ること』です。山県公が西洋的な庭を考えていたこともあったのですが、芝生も苔に比べれば遥かに安価に空間を埋める手段でもあり、また芝生が陽の光が必要だったため、明るい空間表現にも繋がりました。こうして、侘び、寂びや宗教的な表現で緊張感を持って眺める庭とは異なる、ごく自然で明るく開放的な近代庭園が生れました。また七代目が活躍した明治時代は、いろいろな意味での抑圧があり内向きで精神性が求められた江戸時代と異なり、小さな日本が世界へ向かうといった度量の大きさがあるのびのびとした時代でした。こうした時代の影響もスケールの大きい庭作りへと繋がりました。
 

片岡:

先日イギリスで王宮庭園を目にする機会がありましたが、世界各国の植物、建物、様式などが随所に取り入れてありました。洋の東西で、為政者たちが開拓や征服した地、目指す地を庭に取り入れて楽しんでいたかと思うと、庭を一段と味わい深く感じます。ところで無隣庵には西洋の庭園にはないような起伏がありますね。
 

小川

それは七代目が我を通した部分で、こだわりでもあったものと思います。
 

片岡:

そうしたこだわりもまた施主にとっては大きな魅力だった事と思います。それでは次に今私共がおります洛翠庭園(注6)についてお話をお伺いしたいと思います。
 

小川

洛翠庭園は、もとは琵琶湖で水運事業を営んでいた藤田小太郎(注7)の本邸で、同じように七代目が手がけました。七代目はこの庭に、幕末に伊能忠敬が作成した地図をもとに、琵琶湖疏水を使って琵琶湖を忠実に再現しました(明治42年)。この園内の琵琶湖に架かる『一枚岩の橋』は、2億年くらい前の地球の地殻変動で出来たといわれる自然の青石で作られています。実際の琵琶湖にも同じ場所に近江大橋(昭和49年開通)が架けられています。また一枚岩の橋の袂には大津港を現す大きな舟付石を置きました。

<臥龍橋>

藤田家は大津の地を基点に汽船や鉄道を営んでおりましたので、庭を眺めながら事業の構想を考えたり、琵琶湖の風景を楽しんで戴けたものと思います。また庭造りでは、『地球(大地)』『水』の他に『空』(雪、雨、月なども含めて)の取り入れ方も大切な要素で、間の文化があります。これは掛け軸の空白のようなものと考えれば理解しやすいと思います。この『空』は上にあるものだけではありません。琵琶湖の中央部に掛かる『臥龍橋』(お城の遺構の一枚岩と石臼で作られています)から湖面に目を移しますと、そこには空が映しこまれていて、まさに龍が空を駆けるという嗜好になっています。この池向いにある『画仙堂』の屋根にある鳳凰は羽を閉じておりますが、これは『臥龍鳳雛』の故事に因んだものです。先日中国の王毅大使をご案内した折にも、そういったご説明をしますと大変喜んで戴けました。また庭を作る時は、見る人の目線の動きを意識して庭に目線を留め置くようにします。例えば庭の飛び石は意匠としても美しいものですが、歩くリズムを調整する役割も持っていて、周りの景色を見て欲しいところには大きな飛び石を配置して自然と立ち止まるようにしています。
 

片岡:

庭が楽しみ方を教えてくれるわけですね。藤田氏が大切なお客さんをお迎えして談笑している様子が目に浮かぶようです。先ほど『施主になりきる』と仰った意味がよくわかったように思います。ところでこの洛翠庭園は今ではお庭のある料理旅館として人気ですね。
 

小川

洛翠庭園は、戦後持ち主が変わり、私共の手も離れました。庭は子供のようなもので、手入れをして、どう育てていくかでまったく違ってきます。私がこの庭を初めて目にしたときには、既に私共の手を離れてから50年程経っており、七代目の手によるものとは判らないほどでした。ご縁があって2003年から再びこの庭にかかわらせて戴く事になり、七代目の精神性を生かしながら現代の植治の庭として楽しんで戴けるようにしました。今は目的も変わり、お食事処として女性の方が多く利用していらっしゃいますので、以前に比べるとより明るく優しい庭に致しました。いろいろな意味で植治のこころが最もよく現れている庭は住友家の『有芳園(注8)』(非公開)ですが、この『住友家の庭を維持する』ことは家訓となっていて、代々守っております。ところで家訓には『宣伝しない』というものもあります。しかし近年はインターネットの発展もあり、『植治』の名前が私共の知らないところでもいろいろと使われるようになりました。そこで本当の植治を知って戴くためには、きちんと情報を発信する事も必要になってきたように思います。
 

片岡:

逆説的ですが、自然を深く愛する『植治』の本当のこころを多くの人が知る機会が出来るわけですね。本日は有難うございました。
 

(敬称略)

−完−

 

インタビュー後記

小川さんの手がけた庭を歩きますと、いつの間にか心が落ち着き、大地や空といった『自然』に溶け込み懐かれるような感覚を覚えます。十一代 当主として造園 植治を率い、心を癒す庭を作り続ける小川さんは、七代目の研究家でもあります。庭は『時代に求められて、作る人が現れる』そうですが、バブル崩壊後の内向的な後遺症からようやく抜け出しつつある今、小川さんは、世界とまっすぐ向き合う明治時代的な度量をもった施主の登場に備えているのかもしれません。


  

聞き手

片岡 秀太郎

1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。

 
 

脚注
 

注1

造園 植治
京都市東山区三条通白川橋上ル堀池町389
創業1751年
十一代当主 小川治兵衞(小川治兵衛)
http://www.ueji.jp/
参考サイト
http://ueji.blog71.fc2.com/ (小川治兵衞氏の長男 勝章氏のブログ)
http://www.kkr.mlit.go.jp/plan/fureai/0609/pdf/0609_06.pdf (国土交通省)
  

注2 

七代目 小川治兵衞事源之助(1860〜1933)
京都府乙訓郡神足村(現在の長岡京市)の学者の家系に生まれる。1877年(明治10年)に小川家の女婿となり、その後、七代目小川治兵衞を襲名する。近代日本庭園の先駆を作った。現在の植治流は七代目により確立された。
山県有朋邸(無鄰庵)、平安神宮、円山公園、西園寺公望邸(清風荘)市田弥一郎邸(對流山荘)の他、住友家、三井家、岩崎家、細川家、古河家(現東京都旧古河庭園)、藤田小太郎邸(現洛翠)、並河靖之邸(現並河靖之記念館)、稲畑勝太郎邸等の庭園を作庭した。
 

注3 

山県有朋(山縣有朋)(1838〜1922)
山口生まれ。陸軍軍人、政治家で内閣総理大臣を務める(1889 〜1891、1898〜1900)。松下村塾に学び、1873年、陸軍卿に就任。元老として「山県閥」と呼ばれる官僚、軍人の一大勢力を形成し、「日本軍閥の祖」と言われた。
文化人としての評価も高く、和歌を嗜み、特に庭園への造詣は深く、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、東京目白の椿山荘庭園等を所有した。尚、椿山荘はその後、洛翠庭園を所有した藤田家(現 藤田観光)の所有となった。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/208.html?c=3
 

注4

無隣庵
明治27年山県有朋が小川治兵衛に京都の別荘として作らせた無鄰菴の庭園で現在は。日露戦争に関わる我が国の外交方針を決めたといわれる『無隣庵会議』(明治36年、元老・山県有朋政友会総裁・伊藤博文総理大臣・桂太郎外務大臣・小村寿太郎の4名による)が開かれたことでも有名。国指定名勝。
 

注5

琵琶湖疏水
明治維新と東京奠都に伴う人口減少、産業の衰退に苦しむ京都府の第3代京都府知事北垣国道らの計画で1885年から着工された。この際、東京工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業したばかりの田邉朔郎(23歳)を主任技術者任じ、設計に当らせた。琵琶湖疏水により、灌漑や生活用水の他、営業発電として日本で初めての水力発電、日本初の電車、水運等も整備された。
http://www.city.kyoto.jp/suido/sosuisyoukai.htm
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/tanabe.html
 

注6

洛翠庭園
琵琶湖水運や関西の鉄道事業等を営む藤田小太郎の別邸であったが、一九五八年から旧郵政省共済組合の宿泊施設の一部となった。
ゆうりぞうと京都 洛翠
http://www.rakusui.com/
京都市左京区二条通白川角
電話 075-771-3535
 

注7

藤田小太郎(1863〜1913)
大阪生まれ。実業家。藤田組、南海鉄道、関西電力、毎日新聞社を創立した藤田伝三郎の甥で、藤田本家の当主。藤田組の小坂鉱山事業等で活躍したのち、藤田組引退後、鮎川義介(日産コンツェルンの創始者)の戸畑鋳物の創立を後援。
尚、藤田組はその後、同和鉱業、藤田観光等へと発展した。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/187.html?c=0
 

注8

住友有芳園
住友家十五代当主 住友吉左衛門友純が別邸として小川治兵衞(七代目)に作らせたもので、建設には大正2年から7年の歳月を要した。
 


(敬称略)

 


片岡秀太郎の右脳インタビュー

 


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