第50回  『 右脳インタビュー 』        2010年1月1日

岡本 和久さん
I-O ウェルス・アドバイザーズ株式会社 代表取締役社長

  
プロフィール

1946年、東京都生まれ。米国コロンビア大学留学後、慶應義塾大学経済学部卒(1971年)。日興證券株式会社入社、バークレイズ・グローバル・インベスターズ(現ブラックロック)日本法人の代表取締役社長を経て、2005年、I-O ウェルス・アドバイザーズ株式会社を設立、代表取締役社長に就任。日本証券投資顧問業協会理事、同協会副会長兼自主規制委員会委員長、投資信託協会 理事、日本CFA(Chartered Financial Analyst)協会会長(現在、名誉会長)などを歴任。米国カリフォルニア大学バークレー校、ハース・ビジネス・スクール、アジア ビジネスセンター・アドバイザー。

主な著書
「老荘に学ぶリラックス投資術」パンローリング 2009年
「100歳までの長期投資―コア・サテライト戦略のすすめ」 日本経済新聞社 2007年
「勝者のゲームを闘う法―株式分析の実戦技法」 東洋経済新報社 1990年
 

 

片岡:

今月の右脳インタビューは岡本和久さんです。岡本さんは日興証券ではアナリストとして活躍、その後バークレイズ・グローバル・インベスターズ(現ブラックロック) (注1)の日本法人を率い、日本の年金運用界に変革をもたらしました。現在はI-Oウェルス・アドバイザーズ株式会社(注2)の代表取締役として個人の投資教育に力を注いでいらっしゃいます。それではアナリスト時代の話をお聞きしながらインタビューを始めたいと思います。
 

本:

私が証券アナリストを始めたのは、1975年、日興証券のニューヨーク駐在となった時からで、当時はまだ日本で用いられることのなかった米国流の本格的な分析手法による日本の市場分析を、まずは外国人の顧客へ提供しました。その頃の日本の市場では個人投資家は投機色が強く、機関投資家も持ち合いが主流で、証券会社の商売の中心も個人投資家の回転売買でした。当時は、経済は拡大、生活も向上、人口も増え、社会保障制度も強固なものとして出来上がりつつあり、企業や個人は長期投資を考える必要がありませんでした。ですから、うわさ、がせねた、需給関係などが相場を左右する中で、外国人の投資家が少し違う動きをしているといった程度の日本のマーケットは、欧米流の本格的な分析では動かないという見方もありました。しかし1980年代中頃から、日本国内でも機関投資家の本格的な資産運用が始まり、彼らに対して中長期戦略を提供する必要がでてきました。そこで1984年に呼び戻されて帰国、米国で行っていたのと同様のサービスを日本語で日本人の顧客に対して提供し始めました。日本のマーケットの機関化が進むにつれて運用や分析の手法も高度化してきましたが、それは当時の株価がどう分析しても高過ぎるという認識を生み、バブルの崩壊に繋がったという側面もあったものと思います。1989年、日興証券が出資していた米国のウェルズ・ファーゴ銀行(注3)の運用部門が日本に進出することになり、私に白羽の矢が立ちました。早速、米国本社に行ってみると、証券分析でもあれだけ差があったのに運用になると更に素晴らしく、それでこの仕事をずっと続けるために出向という形ではなく日興証券を辞めてウェルズ・ファーゴに入りました。1992年にやっと認可が下り、投資顧問会社として3人でスタート、1995年頃からは急速に成長を始めました。バークレイズ(注4)がウェルズ・ファーゴの運用部門を買収したのもちょうどこの頃です。
 

片岡:

バークレイズ・グローバル・インベスターズは投資顧問会社として日本で最大級となりましたが、日本の市場を如何に切り開いたのでしょうか。
 

本:

ウェルズ・ファーゴに入る時、業界で著名な方から「岡本さん、日本の年金業界は絶対に変わりませんから辞めるべきです」というようなアドバイスがありました。当時は信託銀行と生命保険会社が年金を全額運用していて、多くの企業は同じ財閥系列の信託や生保を使っていました。投資顧問も1990年4月に参入を許されましたが、オールドマネーといって、これまでに積み建てられてきた膨大な資金は依然として信託や生保が押さえ、ニューマネーとして新たに加わる増分の、しかもそのほんの一部が開放されただけでした。さて、当時の運用の仕方はバランス型というもので、全ての運用機関が株も債券も外国債券もそれぞれの相場観で運用していました。このため基金全体でみると無駄が多く、A信託が売ったものをB生命が買っているということもあり、動かすたびにお金もかかっていました。また基金には成熟度があります。電力や鉄鋼のような古い産業もあれば、ハイテク、特にソフトのような若い人が多い産業もあり、それぞれ年金受給が始まるまでの期間が異なります。当然、運用の仕方も変わるべきなのですが当時はそうした区別もなく、バブル崩壊後、パフォーマンスが極端に落ちて見直しの機運も出ておりました。統計的にいうと、運用というものは長期的なパフォーマンスの9割がアセット・アロケーションで決まるという調査結果もあります。基金の特性に合わせて、しっかりとした資産の配分を決め、その中でそれぞれのベストのマネージャーを選ぶようにアドバイスを続けました。その結果、生保や信託の様な百貨店型のマネージャーとは違った、ある部分に強みのある特化したマネージャーが増えるという変化が起きてきました。
 

片岡:

運用額が莫大になると制約もでてきますね。
 

本:

マネージャーが沢山いると、結局インデックス運用と同じになり、しかも高コストです。そこで、コアとなる低コストのインデックス運用を作り、周りにサテライトとしてプラス・アルファーを狙う特化型のマネージャーを付け加えていく。これが今、世界中の年金運用のデファクト・スタンダードとなっているコア・サテライト戦略です。私たちが上手くいったのは、このモデルをいち早く提示、対応する商品を提供し、最終的にコアのマネージャーとして選択されたからです。また私の場合は人にも恵まれました。組織のどの部分においても私が天井だというのでは困ります。性格的には強くて合わない人たちが集まりましたが、私より能力の高い人を採用することと皆がビジョンを共有することとを徹底しました。
 

片岡:

スタッフの報酬はどのようにしていたのでしょうか。
 

本:

基本的に固定給は高くないのですが、ボーナス部分が多く、ゼロから無限大だとよく言っていて、営業成績もありますが運用のモデルについてどのように働きかけたかを評価していました。モデルというのは常に新しい環境に対応できるように働きかけることが必要で、かといってやり過ぎてもいけません。そして “We do well by doing good”、運用額は顧客の評価の証であったかもしれませんが、それよりも付加価値をどれだけ与えていたかを大切にしていました。
 

片岡:

運用フィーについては如何でしょうか。
 

本:

1990年頃は35ベイシス(1basis point=0.01%)を取っているところもあり、我々が10ベイシスを提示すると、「そんなに安くていいのか」と…、今は1ベイシスでも「高い」と言われます。勿論、顧客によってレートも異なり、インデックス運用で何千億円も預けて下さるようなところは1ベイシスを割るところもあり、10億円くらいだと1ベイシスでは難しい…。またアクティブな運用であればパフォーマンス・フィーを戴くこともあります。
 

片岡: 議決権の行使については如何でしょうか。
 

本:

例えば3期連続赤字であれば役員の再選は認めない等、沢山の基準を定めていて、それに従って議決権行使をすることもあります。またISS(Institutional Shareholder Services, Inc.)のような外部の専門機関も使いますし、社内でも担当者を置いていていました。ただインデックスの商品が多いので実際は大変で、嫌だからといっても、ポートフォリオが崩れるのでなかなか売れません。このため働きかけていくことが重要になるのですが、元々低コストで市場パフォーマンスを狙うというものですので、コストとのバランスが難しくなってきます。
 

片岡: そうすると、できるだけインパクトのある企業を選んでいくしかない…。
 

本:

そうなりますね。また年金基金の側が積極的に働きかけることもあります。例えば企業基金連合会などはNOを言う比率が大変多かったようです。そうはいっても企業の変革は少しずつしか進みません。ところで私が1971年に日興に入社した時の社長の訓示が「君たちは良い会社に入った。これからは間接金融から直接金融の時代だ…」でしたが、今でも同じことを言っています。それくらい仕組みが強烈だということです。それでも銀行そのもののリスクテイクへの許容度は非常に低くなってきていて、直接金融への移行は理に適っています。最後は個人の問題なのですが、その個人投資家の世界は海外と日本で最もギャップのある分野の一つとなっています。個人の資産運用は、嘗て年金がやっていたことに近く、言われるままに買って、結果的に出来てきたものがポートフォリオだと言っているレベルで、そこには何の整合性もありません。日本は人口も減り、経済も鈍化、社会保障制度も苦しくなり、終身雇用も年功序列もなくなってくる…。だからこそ富裕層ではない普通の人たちに、こうした状況の中で如何に備えを作っていくのかを伝えたいと思っています。ところでロケットを打ち上げるには方向や力を綿密に計算しますが、予期しないことも必ず起きます。それでも最終ゴールに到達する確率が最大化するような作業を常に積み重ねます。まさに資産運用も同じで、自分の人生設計に合わせて資産の配分をキチンと決めて、それぞれに一番適した部品を当てはめていくことが肝要です。実際、アポロプロジェクトが終わった時に、多くのロケット・サイエンティストたちが資産運用業界に入ってきて、システム工学的なアプローチで今の運用法を創り上げました。それは上がりそうな銘柄や投信を買うというのは次元が違うものです。
 

片岡: まさにバークレイズ・グローバル・インベスターズの運用哲学「投資は科学である」ですね。
 

本:

ところで、そのバークレイズがウェルズ・ファーゴの運用部門を買収した時、バークレイズはウェルズ・ファーゴの部隊を温存し、自身の運用部門を大幅にカットしました。リバース・テイクオーバーだという人もいたくらいです。良いものだから買うのであって、その良い方を残さなくては意味がない…、バークレイズはグローバル経営というものを良く分かっていました。
 

片岡: 素晴らしいですね。今回の金融危機では、金融機関への国家の関与が強まる中、バークレイズは国からの資本注入を受けずに経営の独立性を守りました。
 

本:

そうですね。結果的にバークレイズ・グローバル・インベスターズはブラックロックに売却されることになりました(注1)が…。一般論としては、今回の企業の国有化に近い動きも一時的には仕方のないことかもしれません。難しいのはこれからで、どんどん注射を打った後、如何に正常化していくかです。また基本的にものに対する需要は世界的に高まっているし、グローバル化によって、どの国も構造を作り直す必要性が生まれています。廃藩置県と同じことが今、世界規模で起きています。例えば、中国は約57兆円の緊急経済対策を打ち出しましたが、輸送ネットワークの整備や空港の建設にしても、緊急と言いながら大部分は中国そのものをグローバル化の社会の中で作り直すためのものです。緊急対策としてただ公共投資を増やすのとは次元が違います。そういう視点から見ると日本のインフラは整っておらず、投資すべきところは沢山あります。しかし、まず発想をきちんと押さえないと間違った投資を一生懸命行ってしまいます。
 

片岡: 貴重なお話を有難うございました。
 

〜完〜

 

 

インタビュー後記

岡本さんの実績を持ってすれば、自ら投資信託を立ち上げることも容易で高い収益性も期待できた筈です。しかしながら岡本さんは、今の日本には良い投資信託を作ることよりも、寧ろ、如何に自分のライフプランに適した投資信託を選ぶか、そうした投資教育が必要だと、I-Oウェルス・アドバイザーズ株式会社を設立しました。その開拓者精神は決して衰えることがないようです。そんな岡本さんの趣味はクラッシック・ギター、太極拳…。目に見えない世界が好きなのだそうです。ギターは高校時代から続けていて、コンクールに出場したり、ボランティアの演奏会を開いたり、多忙なビジネスの合間を縫って精力的な活動をされています。

 

  
 

聞き手

片岡 秀太郎

1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。

 
 

脚注
 

注1

詳細は、下記をご参照下さい。
http://www.blackrock.co.jp/(ブラックロック社公式ページ)
http://www.nicmr.com/nicmr/report/repo/2009/2009sum15web.pdf
(野村資本市場研究所 「ブラックロックによるBGIの買収」 三宅裕樹)

注2 詳細は、下記をご参照下さい。
http://www.i-owa.com (公式ページ)
注3 詳細は、下記をご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウェルズ・ファーゴ(Wikipedia)
注4 詳細は、下記をご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/バークレイズ (Wikipedia)
   
   

 


片岡秀太郎の右脳インタビュー


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