第27回  『 右脳インタビュー 』        
2008年2月1日

 田中 森一さん 弁護士 
 
 

プロフィール
 
1943年、長崎県平戸市生まれ。弁護士。
岡山大学法文学部卒。1971年、検事任官。大阪地検を経て、東京地検特捜部で撚糸工業組合連合会汚職、平和相互銀行不正融資事件、三菱重工CB事件などを担当。
1988年弁護士へ転身。山口組若頭宅見勝、アイチ森下安道、イトマン元常務伊藤寿永光、コスモポリタン池田保次などの顧問弁護士を務める。 2000年石橋産業事件をめぐる詐欺容疑で東京地検に逮捕、起訴され、現在上告中。
http://www.tanaka-morikazu.net/

主な著書・関連書籍
『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』 田中 森一 (著) 幻冬舎 2007年
『検察を支配する「悪魔」』 田原 総一朗 (著) 、田中 森一 (著) 講談社 2007年
『必要悪 バブル、官僚、裏社会に生きる 』田中 森一 (著), 宮崎 学 (著) 扶桑社 2007年
『バブル』 夏原 武 (著), 田中 森一 (著) 宝島社 2007年

 

片岡:

第27回のインタビューは弁護士の田中森一さんです。本日はご多忙の中、有難うございます。それでは、ご足跡などお伺いしながらインタビューを始めたいと思います。
 

田中

私が生まれたのは船越という島の南端にある電気もバスもない小さな村です。半農半漁の貧しい家でしたが、3代で初めての男子だったこともあり、愛情に恵まれて育ちました。ただ、漁師になるのが嫌で嫌で…。父を説得して島の定時制高校に進学しましたが、受験という意味では、まともな先生がいません。そんな時、蛍雪時代の対談記事で、和歌山県の予備校の校長先生の苦学生を奨励する一言が目に留まりました。この人ならばと手紙を出すと『全力で受験に臨みなさい。それでもダメだった時は訪ねて来なさい』と返事をくれました。受験に失敗、手紙を握りしめ、郷里をでました。先生のもとで書生として受験勉強をし、また姉や妹の必死の支えもあり、なんとか岡山大学の法学科に入学しました。しかし、大学に入ると空手部に入部、学問はそっちのけで喧嘩ばかり。ある時、クラスのガリ勉に馬鹿にされ、カチンときて、それから本気で法律の勉強を始めました。今考えれば恩人です。
 

片岡:

最初に弁護士ではなく検事を選んだのはなぜでしょうか。
 

田中

根本的に金は悪だ、金持ちは悪人だという考えがあり『お金で左右されるような職業(弁護士)はとんでもない』と。これは検事としての正義感のもとにもなっていて、金にものを言わせている人には本物の憎しみが湧き出してきて、逆に貧困ゆえの犯罪には心底同情しました。
 

片岡:

お金に対するネガティブな風潮は検事局全体にもあるのでしょうか。
 

田中

私の場合、正月にまで借金取りがきて父を責め立てる姿を目の当たりにし、お金そのものが悪いと思うようになりました。弁護士になるとドンと変わるのですが、当時は、まだそうした体験が抜けきれていませんでした。他の検事はわりと裕福な家庭でのものが多く、こうした感覚は珍しかったと思います。また私には東大、京大…といった学歴がなく、結果を出すしかない。人一倍、仕事に打込んでいました。
 

片岡:

平和相互銀行不正融資事件(注1)など大変なご活躍でしたが、独自の情報力をお持ちだったものと思います。
 

田中

特捜検事は特に外部との接触を制限されていたのですが、私は30人程の捜査協力者を持っていました。これは自分もリスクを負うことで、気をつけないと大変なことになります。会うのは喫茶店、昼間だけ、奢ったり奢られたりはなしです。見返りを要求されたことはありませんが、彼らにしてみれば、特捜の検事を知っているだけでも大変なことです。それをどの様に利用していたのかは分かりませんが、人間的にきちんと付き合える人を選んだつもりです。その点、メディアは社会情勢も掴め、信用もしやすく、リスクが少ないので重宝しました。勿論、こちらも原則的に禁止されていました。
 

片岡:

世論作りに使うこともあったのでしょうか。
 

田中

私の場合、どちらかというと調査目的です。日頃は事務官と二人ですから、それだけでは情報を掴むことが難しく、尾行なども必要です。そうした時にメディアを仲間に引き込みました。弁護士になってからは、調査や情報源というよりは寧ろ友達付合いをしています。
 

片岡: 『特捜のエース』と言われた田中さんがなぜ弁護士へ転身したのでしょうか。
 

田中

現場の検事にとって特捜部は憧れの存在です。正義の最後の砦、切札だと思っていましたが、実際はとことんやれない限度があり体制や組織の維持が優先されます。これは政治家やOBといった外部からの圧力よりは自浄作用が主です。検事総長になるような上層部の10人くらいは、日頃は法務省にいて、ほとんど現場を経験することがなく司法官僚というよりは行政官僚としての意識が強くなります。このため判断そのものが自民党に似てきて、直接圧力を受けなくても、自ら行動をとるようになります。
 

片岡:

官僚、特に大蔵省に対しては如何でしょうか。
 

田中

ポジションが上になると、例えば職員宿舎のことなども考えます。予算が削られれば、それなりの宿舎に住まわせてやりたいと思ってもできませんし、そうなると新しい人も入ってこない。また残業手当だって出せません。大蔵省主計局は必ずそういうところを突きます。ですから、総理大臣は逮捕できても、主計局はやれない…。こうして、矛盾や虚しさが鬱積し、母の病気もあって弁護士への転身を決めました。
 

片岡:

文藝春秋の記事『特捜検事はなぜ辞めたか』が話題となりますね。
 

田中

そんな時に文藝春秋の新年号で特集記事として取上げられました。まだ在任中でしたのでいろいろ大変だったのですが、弁護士を開業すると顧問の依頼が殺到しました。検事の退職金が800万円だったのに開業の祝儀だけでも6000万円もありました。
 

片岡:

弁護士はクライアントの正義のために全力を尽くすことが求められますが、依頼を引き受ける基準については如何でしょうか。
 

田中

大企業の顧問となれば社会的地位も高い。しかし法律という大切なことをアドバイスするのに、社長や専務には直接会うことがありません。それで本当に思い通りの仕事ができるのでしょうか。そんな仕事をするために特捜を辞めたのではありません。一方、学歴もなく法スレスレのこともやり、修羅場を潜り成り上ってきた不動産や金融業などの社長は、『法律のことは先生に一切任せる』と言い、また教科書にない話、本当の男の生き様を教えてくれます。彼らは社会的に弾き出されていて、そういうところの顧問をすると評判が良くないことは分かっていますが、彼らには贖い難い人間的な魅力を感じます。仕事している、毎日生きているという実感が欲しい、自分の信念に基づいていると思えることをやりたいと考えています。
 

片岡:

ヤクザについては如何ですか。
 

田中

会津小鉄の親分が『京都には修学旅行で小学生、中学生が全国から集まります。彼らが夜でも安心して街を闊歩しているのが私の自慢です。私がいなかったら、ひったくりが横行し…。そういう連中は警察ではなく、私が怖い。法律ではなく、私が束ねています。』と言っていました。勿論、ヤクザの世界は人を殺したり、いろんなことがありますが、金や力だけでは親分のために命を捨てようとはなりません。山口組の若頭、宅見組長にも人間的にグッと来るような話が沢山あります。ヤクザを褒めるわけではないのですが、魅力は否定できませんし、教えられることもあると思います。
 

片岡:

組織としてみると冷徹で、巨大な闇の一端をなしています。
 

田中

闇社会の守護神などと言われたことも事実ですが、彼らは人として魅力があった、それが一番。だから今でも間違っていたとは思いません。逮捕された時、温かい本当の支援をしてくれたのも彼らです。反対に社会的な地位のある人ほど離れていきました。また世の中にはヤクザにしかなれない人が沢山います。大阪にやくざが多いのは、同和や在日の問題等もあるからで、力づくで法的に対処するだけでは解決できません。
 

片岡:

確かにそういった問題の存在を認めたうえで、飲み込んでいかなくてはなりません。それでは次に今の法曹界の抱える問題点についてお聞きしたいと思います。
 

田中

今後、どんどん法曹人口が増えますが、質が低下し、またそれだけの仕事があるかどうか心配しています。
 

片岡:

マーケットも創られていくのではないでしょうか。例えば陪審員制度の導入では、米国のような需要の喚起も期待されているものと思います。
 

田中

陪審員制度の導入には反対です。米国からの要請に応じた面もありますが、日本では素人は馴染まない。日本の裁判における証拠の評価等は法律的にプロじゃないと難しく、法律の制度そのものを単純化しなくてはいけませんし、素人は感情に流されることもあります。
 

片岡:

時期尚早ということですか、それとも不必要ということでしょうか。
 

田中

必要がない制度だと思います。法律家になろうと思うと法科大学院に通うことになりますが、年間200万円ほどかかります。必然的に裕福でないと法律家になれません。法律家は人間の一番醜い部分に接しますので、ある程度、汚いことがわからないといけません。親からお金を出して貰うような人に理解しろという方が無理なのではないでしょうか。ドロドロしたものがわかる人も採用できるシステムにしないと、法曹界は法律にただ使われるだけの人が増え、本当の意味で法律を使える人が少なくなります。犯罪者を処罰することは簡単ですが、犯罪者に二度と罪を起こさせないことは難しい。どこか心に触れ合うものがないといけないのに、今の制度は逆行しています。
 

片岡:

重要な問題点ですね。それでは最後に、今後のご活動についてお聞かせ下さい。
 

田中

今はどうしても断れない場合を除いて弁護士活動を行っていません。刑が確定すればその時点で資格を剥奪されますが、無罪でも弁護士バッチを返上しよう思っています。そもそも捕まった時点で返上しようとしたのですができませんでした。石橋事件(注2)で懲戒の申し立が弁護士会に出たのですが、弁護士会は判決が出るまで判断を控え、脱会を許さないからです。いずれにしても、バッチをしたままでは世間が私を再評価することはない。今後はバッチを外し、夢を持って頑張っている若い人たちを全力で応援したいと思っています。その準備として田中森一塾(注3)を開講しました。一人一万円の寄付を集めて、将来は50億円程度の財団に育てたいと思っています。そうして年4%程度の低リスクで運用し、100人に10万円/月を支給、夏と冬にセミナーを開きます。実は弁護士時代からこうしたことを考えていて、そのために株もやりました。当時、仕手筋がこぞって自分のところに来ていたので、上がる株もわかっていました。インサイダーにもならず、税金もクリアに出来ます。信用買いなどもやり30億円ほどになっていたのですが、バブルが崩壊し、それ以上の借金を負いました。結局、自分一人でやっていれば博打になりますので、今度は皆様と一緒にやりたいと思っています。
 

片岡:

貴重なお話を有難うございました。
 

(2008年1月7日にインタビューを実施)

 

(敬称略)

−完−

 

インタビュー後記

普段は仕事に追われ、オフにはゴルフといった生活が逮捕後一変、最高裁から連絡が来ればすべてが無に帰す。そうしたプレッシャーの中で、暇さえあれば自己啓発本を読んでいるそうです(2日に一冊)。闇社会の守護神と言われながらも、悪人になりきれなかった(踏み留まることができた)人間味もまたこうした素朴な強さだったのかもしれません。判決の如何に限らず、田中さんの能力と経験は今の日本の企業社会に役立つはずです。財団活動とともに、真正面から社会に再評価させる活躍も期待しています。

  

 

聞き手

片岡 秀太郎

1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。

 
 

脚注
 

注1

http://ja.wikipedia.org/wiki/平和相互銀行 (Wikipedia)
 

注2 

イトマン事件で逮捕起訴され保釈中だった許栄中被告が田中森一弁護士らと共謀し、石橋家の相続を巡る内紛に乗じ、石橋産業株を返す条件として、中堅ゼネコン「新井組」株約1120万株の買い取りを石橋産業側に求め、1996年に約179億円の約束手形をだまし取ったとされる事件。この事件の過程で、中尾栄一元建設相に石橋産業傘下の若築建設から6千万円が渡っていたことが露見し、政界汚職事件に発展した。
 

注3 

田中森一塾
個人登録:10,000円 法人登録:50,000円
http://tanaka-jyuku.net/
 

   
   
   
   
   
   


(敬称略)

 


片岡秀太郎の右脳インタビュー


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