第3回 『 片岡 秀太郎の右脳インタビュー 』
               2006年2月1日

菅沼 光弘さん                                        
 

 

菅沼 光弘氏 プロフィール

1936年生まれ
1959年 東京大学法学部卒業後、公安調査庁入省
調査部第二部長として旧ソ連、北朝鮮、中国の情報分析に当る。世界各国の情報機関との太いパイプを持ち、日本におけるクライシス・マネジメントの第一人者
アジア社会経済開発協会会長
瑞宝中綬章受賞

著書 
【日本はテロと戦えるか】 扶桑社 2003年
菅沼光弘 アルベルト・フジモリ共著
【この国を支配/管理する者たち―諜報から見た闇の権力】 徳間書店 2006年 菅沼光弘 中丸薫共著




 

片岡:

第3回の右脳インタビューは、菅沼光弘さんにご登場いただきます。本日はお忙しい中、貴重なお時間を有難うございます。それでは、菅沼様のご体験をお伺いしながらインタビューを始めたいと思います。先ずは学生時代のエピソードからお願いします。 
 

菅沼

大学ではボート部と応援団におりました。野球が好きで本当は野球部に入りたかったのですが、入部が適わなかったので野球を見ることが出来る応援団に入りました。そのボート部の資金集めで公安調査庁注1の先輩を訪ねました折に、彼が「会わせたい人がいる」と紹介して下さったのが甲谷悦男さんです。甲谷さんは戦時中陸軍大佐として対ソの情報活動に従事していた方で、いろいろと興味深い話をお聞きしました。
 

片岡:

どのようなお話ですか?
 

菅沼

例えば、ソ連の極東長官だったリュシコフ大将注2がドイツとの内通を疑われ、スターリンの粛清注3から逃れるために、1938年、満州国経由で日本へ亡命しました。実は、これはスターリンと軍部を離反させ弱体化させるドイツの対ソ諜報活動によるものでしたが、そのリユシコフ大将を満州から日本に連れて来たのが甲谷さんでした。そして神楽坂の花街注4も交えて凋落、極東に於けるソ連軍の配置や軍備、さらに暗号までも入手することに成功します。しかしながら当時の日本には情報の真偽を確認する能力がなく、評価をドイツに依頼しました。ドイツは第2次大戦が始まるまでソ連軍に武器を提供し、また密かにソ連領内で演習を行なうなど密接な関係にあり、ソ連の軍備は勿論軍部の考え方まで精通しておりました。その結果、日本はリュシコフ大将の齎した情報の確かさを確認出来たのですが、同時にドイツは、日本の対ソ戦略の根幹となるような重要情報の解析を依頼されたわけですから、当然、日本がソ連の戦力をどのように分析しているかという重要な情報を得ることが出来ました。この情報がゾルゲなど注5を通してソ連にもたらされ、ノモンハン注6での敗北へと繋がりました。つまりソ連は、日本軍が想定しているソ連軍の戦力を知り、それを越える戦力を集結したわけです。と、こういった話を聞き、まさに男がやるべき仕事だと思いました。それまでは砂川事件注7や60年安保注8の時代でしたので、むしろ公安調査庁には否定的な感覚を持っておりましたが、一転、公安調査庁への入省を決心しました。この時、影として生きる決意をしたわけです。
 

片岡:

情報の重さと複雑に絡み合う諜報活動の一端を垣間見させて戴きました。ところで菅沼さんはフジモリ元大統領注9ともご交流をお持ちである上、本も書かれていらっしゃいますね。
 

菅沼

フジモリ元大統領とは良く連絡を取っておりましたが、今回の帰国は本当に突然の事でした。当時私は同大統領の復権には米国との関係修復が必要との認識があり、そのような調整をお手伝いしている最中でした。と申しますのは、フジモリ元大統領が在任中、ペルーは北朝鮮からのミサイル購入を計画しましたが、南米地域の空のパワーバランスを崩すために断念し、代わりにロシアから戦闘機を購入いたしました。これが米の逆鱗に触れ失脚に繋がったといわれております。フジモリ元大統領は独自の算術を用いる方で、少数民族である日系人大統領が誕生する可能性は政治学的には皆無といわれる中、出馬して当選を果たされたのですから、今回の帰国も余人の考え着かない勝算があるのかもしれません。
 

片岡:

フジモリ元大統領と申しますと、やはり1996年に起きた日本大使公邸人質事件が鮮烈に印象に残っております。
 

菅沼

この事件でのフジモリ元大統領の対応は、クライシス・マネジメントの観点から見て完璧でした。
 

片岡:

当時の官邸の対応を考えますと、同じ事件が日本で起きていたらまったく異なる展開になっていたものと思います。それでは次に、日本の経済界において広義の意味で、リスク・マネジメント(危機管理)とクライシス・マネジメントの違いについてお話しいただけますか。
 

菅沼

私流の解釈ですが、例えばテロ対策には2種類あり、一つ目がアンチ・テロリズムで、これはテロが起こらないようにするための対策です。もう一つがカウンター・テロリズムでこちらは実際にテロが起こったときにどのように対処するかということです。企業においても同様で、実際に買収を仕掛けられるなど危機が起きた時の対処がクライシス・マネジメントと言うことになります。
 

片岡:

企業買収への対応では特に世界と日本の隔たりが大きいように思います。自由主義経済を標榜する日本市場において、株式を公開し、自由且つ潤沢な資金を投資家から募って企業経営を行なっているのが日本株式会社のCEO像と一般的に認識されております。しかし、法の遵守と市場原理に則った上でのM&Aを敵対的買収と称し、且つ被害者意識やナショナリズムを煽るのは、日本経済全体のナイーブさと国際性の拙速さ故であると海外投資家たちからが指摘されておりますが、日本企業のクライシス・マネジメントに対する認識はどういったものでしょうか? 
 

菅沼

日本のM&Aでは買収側はゲーム的な感覚でリスクを溜め込み、防衛側は何が起きているかを正確に理解せず、共に稚拙な面がございます。またリスク・マネジメントやクライシス・マネジメントにおいて最も大切なのが情報です。残念ながら多くの日本企業ではこの情報への認識が低いのが現状です。例えば、ライブドア注10の場合も、査察が入る1年以上前から警察や検察内部では動きがあったはずです。そういう情報を入手する努力が必要だったのではないでしょうか?また、昨今のM&Aは結局1980年代に米国で起きたこと注11の焼きなおしです。ですから、防衛するためにも、米国での事例をしっかり研究することが必要です。
 

片岡:

20年間ほど遅れてやってきたM&Aの波ですが、残念なことに表層的な部分に囚われる企業も多く、M&A対策と称し、日本的発想の【ポイゾン・ピル】戦略注12が市場を賑わしております。逆に、クライシス・マネジメントのプロフェッショナルのマインドを持った投資家から見て、M&A、いわゆる乗っ取りに限りなく近い企業買収を仕掛け易い日本の上場企業のバックグラウンドとはどんなものでしょうか。
 

菅沼

どんな企業にも弱みがございます。私が投資家でしたら、例えば先ず相手の情報を収集します。会長と社長の間はどうなっているか?そう言ったパーソナリティーに関する情報は、彼らの社内外の敵から聞き出せます。その上で弱点を突き、内部から崩壊させます。一方、買収にあう企業は防衛するためにも、先ず相手が何処を攻めて来るかを知らなくてはいけません。従前の日本の弁護士的な発想では、今後の外資の攻勢に対応できないのではないでしょうか。これまで日本の企業買収の対策は、ある意味大蔵省が担ってきた面もあります。冷戦の崩壊後、米国の関心は日米の経済戦争に向き、大蔵省の弱体化を図ったと言われております。その中で、銀行の持つ不良債権に潜む政や闇との癒着構造の透明化の必要性が指摘されました。それが北朝鮮利権に関係する政治家の駆逐であり、食肉加工業者の問題に繋がりました。これらは簡単で、ただ彼らの不正に関する情報を流せばいいわけです。孫子注13の一節に、「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず」というものがございます。結局、正面きっての戦は非常にコストが大きいものです。だからこそintelligenceが重要となります。企業においても同じことです。
 

片岡:

日本の企業経営者にない鋭い切り口ですね。大変参考になりました。では最後に、企業経営者がクライシス・マネジメントの専門家を活用する上で留意すべき点についてご教授ください。
 

菅沼

そもそも、誰に頼むのかと言うことが重要です。つまり、専門家と称する人がいったいどれだけの経験や能力を持っているのかをしっかり見極め、活用することが肝要です。そして、専門家を雇う目的を見失わないことも重要です。本当の専門家というものは、無名の存在であることが多いものです。
 

片岡:

有意義なお話をたくさん賜り感銘いたしました。日本の企業経営者のみならず、起業を目指す若い世代に貴重な啓蒙を与えたものと信じます。本日は有難うございました。
 

−完−

 

インタビュー後記

菅沼さんは入庁後、直ぐ、緊迫する対ソ諜報活動の最前線である西ドイツ連邦情報局(B.N.D.)に派遣されたそうです。これは情報機関相互の関係を戦後再構築するためのものでした。伝統的に欧州は高いレベルのhuman intelligenceを持っており、そのノウハウとネットワークを吸収し、また他の情報機関とのパイプを構築する、まさに今の日本の情報機関の根幹を成したものと思います。その菅沼さんのグローバルなバランス感覚に裏付けられた情報力が、IT産業の抱えるクライシスを透視しているのは、象徴的なことです。

  

 

聞き手

片岡 秀太郎

1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。

 
 

脚注
 

注1

日本に対する治安・安全保障上の脅威に関する情報収集(諜報活動)を行う組織で、1952年破壊活動防止法の施行と同時に設置された。同庁の設置には、戦後公職追放されていた陸軍中野学校、特高警察、旧軍特務機関の出身者が参画したと言われる。同庁は、人事・管理を担当する総務部、国内情報を担当する調査第一部、国外情報を担当する調査第二部で構成されており、長官、次長、総務部長は検事が、調査第一部長には警察庁からの出向者、同第二部長には公安調査庁プロパーがあてられている。
 

注2 

ゲンリヒ・サモイロビッチ・リュシコフ(1900-1945:異論もある) ソ連内務人民委員部G.P.U.極東長官。弾圧機関であるG.P.U.において重要な地位を占め、極東地域でのスターリンによる粛清の実行の責任者の一人であったが、粛清の嵐が自身にも及ぶことを恐れて亡命した。当初、日本を経由して第三国への亡命を希望していたとされる。リュシコフ大将は亡命により、ソ連情報機関の日本や周辺諸国における活動の原則や極東地域におけるソ連の軍備などの情報を齎した。またリュシコフ大将が発表したソ連秘密警察、スターリン恐怖政治の内幕を暴く手記は、日本だけでなく海外でもセンセーションを巻き起こす一方で、ソ連国内では報道統制が敷かれた。
 

注3 

ヨシフ・スターリン(1879-1953) 本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。スターリンはペンネームで「鋼鉄の人」の意。ソビエト連邦の政治家で、事実上の独裁者でもあった。「粛清」と称して2000万人以上もの国民や党員を殺戮したとされ、「紅いツァーリ」「白い国の独裁者」とも呼ばれた。一方、祖国をドイツのナチ政権から守った英雄と見る人も少なくない。
 

注4

神楽坂は京都の祇園と並び称される花街で、1960年頃の神楽坂には、料亭が80軒以上、芸者さんは450人程いたと言われている。現在その数は10分の1程に減ったものの、路地に敷かれた石畳や遠音の三味線など、今尚、江戸の美と粋を集めた花柳界の面影を残す。また故田中角栄元首相が通っていた事でも有名。
 

注5 

リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895-1944)ソビエトのスパイ。ドイツ新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」記者で、オイゲン・オットー駐日ドイツ大使の信頼を得て、ドイツ大使館の私設情報担当となる。その一方で、近衛文麿内閣のブレーンである尾崎秀実らと情報収集を行っていた。ゾルゲは1941年9月6日に行われた御前会議で日本軍が、南方及び米国への進攻を軸とする「帝国国策遂行要領」を決定したという情報を入手。ソ連はその情報を元に戦力を独ソ戦に集中し、スターリングラード攻防戦でドイツ軍を撃破した。しかしゾルゲらは1941年10月に検挙、1944年に処刑された。ゾルゲは逮捕された後コミンテルンのスパイであることを自供したがソ連政府は否定。1964年、反スターリン路線を掲げるニキータ・フルシチョフがゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」を授与、死後20年を経て、その功績が認知された。
 

注6 

1939年夏、今のモンゴルの草原地帯で満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐり、両国のそれぞれ後ろ盾である日本軍(関東軍)とソ連軍の間で行なわれた戦いで、日本軍はソ連軍の戦車を中心とする機甲師団に敗れ、1万人規模の戦死者を出した。日本軍が近代兵器に破れた最初の戦いとされている。
 

注7 

1957年、在日米軍庁立川基地(飛行場)の拡張工事のため東京都北多摩郡砂川町所在の立川飛行場内民有地の測量を行なった際に、この測量に反対する砂川町基地拡張反対同盟員及びこれを支援する各種労働組合員、学生団体員等千余名の集団が、測量を妨害すべく東京調達局(現在の防衛施設局)の測量隊に投石し、基地の柵を壊し敷地内に侵入して座り込んだ。敷地内に侵入した25名が「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約第3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法(刑特法)」で検挙され、7名が起訴された。
 

注8 

1958年頃から岸信介内閣によって安保条約の改定の交渉が行われ、1960年1月に調印された。革新勢力の反安保闘争が、野党が統制できない大衆運動に発展した。連日、全国各地から集まった数万の学生・労組員が国会周辺で安保反対のデモを繰り広げた。1960年5月20日に衆議院で強行採決されると、民主主義の破壊であるとして国会の周囲をデモ隊が取り囲んだ。国会構内での東京大学文学部4年の樺美智子の死亡を機に(6月15日)反安保闘争が、反政府・反米闘争へと転化する動きが強まり、国会が連日デモに包囲された。条約は参議院の議決がないまま6月19日に自然成立したが、予定されていたアイゼンハワー大統領の来日は中止された。7月、岸内閣は総辞職した。尚、1960年の安保闘争においては、左翼運動が暴力的争乱にまで発展してしまったために、政府自民党は、児玉誉士夫を介して鶴政会の稲川角二、住吉一家の磧上義光、的屋系の尾津喜之助らに依頼し、数万人の暴力的動員を確保したと言われる。 
 

注9 

アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ 1938年7月28日生まれ ペルー元大統領(在職:1990年7月28日-2000年11月17日)。元大学教授。スペイン系の40家系が国富の80%を持つといわれるペルーでは少数民族の日系人大統領が誕生する可能性は政治学的には皆無といわれる中、大統領選に出馬し当選。混迷を深めたペルー経済を立て直し、センデロ・ルミノソとトゥパク・アマル革命運動(MRTA)等の左翼ゲリラや麻薬組織を中心としたペルー国内の混乱に一定の歯止めをかけた実績が評価されている。しかし、1993年の自己クーデター以後の権威主義的な統治を批判する者もある。1996年12月17日、トゥパク・アマル革命運動による日本大使公邸人質事件が発生。フジモリ大統領(当時)の指揮の下、ペルー軍コマンド部隊が公邸に突入して解決。2000年の大統領選挙を機に巻き起こったスキャンダルと政治的混乱により、日本に亡命し辞任を申し出た(ペルー国会は辞任を認めず逆に罷免した。その後人道犯罪や権力乱用罪等で起訴されている)。2001年トレド大統領が選出されたが、経済の停滞や治安の悪化に伴い、貧困層を中心にフジモリ待望論が広がっている。トレド政権はフジモリ大統領を引き渡すよう日本政府に要請しているが、日本政府は引き渡しを拒否し続けてきた。2005年10月、2006年に行われる大統領選挙に出馬するために日本を離れチリ向かい、11月7日チリの警察に逮捕された。
因みにペルーの人口構成は、混血(メスティーソ)45%、インディオ(先住民)37%、ヨーロッパ系15%、アフリカ系・アジア系・その他3%。内、日系ペルー人は約8万人。
 

注10 

ホームページ制作からポータルサイトの運営、ソフト販売、金融等多角的事業を展開している(主な収益は金融関連事業から得られている)。
略歴
1996年4月、堀江貴文氏を中心とする大学生4人でホームページ制作業のベンチャー企業、有限会社オン・ザ・エッヂ(資本金600万円)として設立。
2000年4月、東京証券取引所マザーズ市場に上場。2003年4月社名をエッジ株式会社に変更。
2003年11月13日にエッジは1:100の大幅な株式分割を実施。その後、株価は2003年12月25日から2004年1月20日まで15営業日連続ストップ高となった。これは分割した新株式が2004年2月2日にならないと受渡が行われないことによる需給の差が原因と言われる。
2004年2月、『株式会社ライブドア』へ変更。
2004年6月からプロ野球オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズとの合併協議に対抗して、大阪近鉄バファローズの買収に名乗り出てメディアの注目を集める。
2005年3月には、ニッポン放送の支配権を巡りフジテレビジョンと買収合戦を行ない、国民的関心事となる。
同社代表(当時)の堀江貴文氏は、2005年9月11日の衆議院選挙に亀井静香氏の選挙区である広島6区から出馬。非公認ながら自民党の強い支持を受けるものの、亀井氏に惜敗。
2006年1月16日、証券取引法違反の容疑により、東京地検特捜部が、六本木ヒルズ内の本社および堀江社長の自宅・新宿の事業所などの家宅捜査を実施。翌日はライブドア関連銘柄の株価が軒並みストップ安となり、また新興市場を中心とした他の銘柄の株価も全面安になる。東京証券取引所は、これらの急激な出来高増加に対応できず取引が停止するなどの事態も発生した。
2006年1月23日、堀江氏ら幹部4名が証券取引法違反の疑いで東京地検に逮捕された。
 

注11 

米国に於けるM&Aの変遷の概略
  
1960年代 独禁法運用強化により同一業界内での拡大の限界や景気変動の への対応の必要性から大企業による異業種企業の買収が数多く実施され、企業のコングロマリット化、多角化が進む。
1980年代 コングロマリット化の行き詰まり等により、不採算部門の売却 や再編という目的のためにM&Aが利用されるようになる。
1980年代後半 投資目的としてM&Aが注目を浴び、投資ファンドやLBOによ る買収が積極化する。また買収した企業を解体して売却するこ とで収益を得るケースも頻発した。LBOでは1988年に米国の ファンドであるKKR(Kohlberg Kravis Roberts & Co. : 1976年設立)によるRJRナビスコの買収(総額300億ドル超、 負債の調達比率8割)が有名。
1990年代以降 合理化や競争力強化を目的としたより戦略的なM&Aが主流と なる。
 

注12

日本では一般に、敵対的買収がなされた場合に被買収企業側が他の既存株主に対し時価よりも安価な価格で新規株を発行する毒薬条項を指す。しかしながらウォール街では、敵対買収に対抗し、その牙城を切り崩すため、あらゆる手段や諜報活動を駆使し、買収者を撤退させる事を示す専門用語としても用いられている。
  

注13 

孫武の作とされる兵法書で、春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年)に成立した。クラウセヴィッツの戦争論と並び、東西の二大戦争書とも呼ばれる。孫子を活用した偉人は多く、ナポレオンは宣教師に訳させた孫子を愛読し、戦場では常に手放さなかったと言われる。映画『ウォール街』(1987年 オリバー・ストーン監督)で、マイケル・ダグラス扮する企業乗っ取り屋のゴードン・ゲットーが愛読していたことでも有名。
クラウセヴィッツ(Carl Phillip Gottlieb von Clausewitz、1780-1831)は、プロイセン王国の軍事思想家で、プロイセン軍人としてナポレオン戦争に参戦しフランス軍の捕虜となり、2年後に釈放される。その後、プロイセン皇太子の軍事教官、軍事省官房長を歴任。1812年のナポレオンのロシア遠征時には、ロシア軍に参加しナポレオンと戦う。1815年のワーテルローの戦いではプロイセン軍の軍団参謀を務めた。著書『戦争論』(Vom Kriege)は近代国民国家における戦争の本質を鋭いた名著。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という言などが有名。
 

 


片岡秀太郎の右脳インタビュー


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