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第59回  『 右脳インタビュー 』  (2010/10/1)

平松 庚三さん

元 株式会社ライブドア 代表取締役社長
小僧com株式会社 代表取締役会長
 

  
  プロフィール

1946年北海道生まれ。アメリカン大学(Washington,D.C.)コミュニケーション学科卒業。ソニー株式会社入社後、アメリカンエキスプレス副社長、 IDGコミュニケーションズ社長、AOLジャパン社長などを歴任。2000年にIntuitジャパンのCEOに就任(同社は2002年にMBOにより米国親会社から独立、社名を弥生株式会社に変更、その後2004年12月、株式会社ライブドアの100%子会社となる)、2005年3月、株式会社ライブドア 執行役員上席副社長 弥生事業本部担当に就任。2006年1月、株式会社ライブドア(社名を2007年4月株式会社ライブドアホールディングスに、2008年4月株式会社LDHに変更)執行役員社長、2008年6月、代表取締役社長に就任。退任後、小僧com株式会社 代表取締役会長に就任。

主な著書
『ボクがライブドアの社長になった理由』ソフトバンク クリエイティブ 2007年
 
 

片岡:

今月の右脳インタビューは平松庚三さん(注1)です。平松さんは、堀江貴文氏(注2)ら経営幹部が一斉に逮捕され、未曽有の危機に直面したライブドア(注3)の舵取りを託され、見事にサバイブさせました。
 

平松

あの時私は、代表を務めていた弥生(注4)をライブドアに売却し、弥生の社長とライブドア本社の執行役員上級副社長 弥生事業本部担当を兼務するポジションに就いていました。2006年1月16日、強制捜査、その2日後「万が一の事があったら後のことは頼みます」と堀江から要請があり、1月23日に堀江逮捕、翌日私は執行役員のまま社長に就任しました(2006年6月、代表取締役社長に就任)。通常、ヘッドハントされた場合、入社までに半年程度の準備期間があり、その間に業界、会社、競合等を外から勉強し、入社後、現状を認識し、問題点を把握、それを社内で共有してプライオリティーを付けて解決していきます。しかしあの時は、それまでの経験が全く役に立ちませんでした。現状を認識しようにも、混乱が起きているということしか把握できず、大きな問題があるということはわかっても、それがどういう問題なのかさせもわからない…。
 

片岡:

強制捜査によって経営資料も押収されていましたね。
 

平松

まず数字を見ようと思いましたが、資料は勿論、サーバーまで押収されていて、社内には何もありません。その上、押収された資料を見るためには弁護士を通して閲覧申請を行うことが必要でした。そこで、嘗て一緒に仕事をしたCFOを引き抜き、彼のもとに10人程の財務、経理のコンサルタントを雇い、会社に残っている資料から新たに数字を作り上げていきました。爆破された建物の瓦礫の山から掘り出される小さなパーツを組み合わせて内部の物を再現していくようなものです。こうした作業には1年以上かかりました。それがないと決算報告も出せません。株主総会では「これがベスト・エフォートで、違っていた時には、その都度報告します」というので精一杯、監査人も判子を押せませんでした。
 

片岡:

捜査自体の影響だけでも甚大ですね。更に捜査にともなって、メディアもヒートアップしました。
 

平松

六本木ヒルズには100人、自宅は20人程のメディアに常時囲まれていました。ですから事件直後、私がまずやるべきことは内外を落ち着かせることでした。ソニー時代、日米で7年間広報に従事していましたが、その時の先輩が、私の就任が報道されると直ぐ「貴君はいつもラフな格好をしているが、必ずネクタイをするように」と強くアドバイスしてくれました。記者会見等でいくら大切なことを言っても、メディアを通して見ると、第一印象で決まってしまう事が多くあります。また広報担当者も弥生にいた50代の女性に変えました。「堀江」と「美人広報」という組み合わせから、新しいライブドアの象徴として、ネクタイをした「おじさん」と「おばさん」に変えたわけです。
 

片岡:

PR会社も活用したのでしょうか。
 

平松

当時のライブドアはクライシス・マネジメントについて何も準備していませんでしたので、先程のソニーの先輩にプラップジャパン(注5)の杉田敏氏(現 プラップジャパン代表取締役社長、元 バーソン・マーステラ日本支社長)を紹介して貰い、その場で契約しました。米国の場合、PR会社は世論作りや議員を動かしたりするロビイングを行うマネジメントタイプの機能を持つ会社も多く、大きな力を持っています。一方、日本のPR会社は規模が小さくて力も弱く、イベントを企画したり、プレスリリースを流したりというレベルが殆どですが、プラップジャパンは本格的な機能を持つ数少ないPR会社の一つでした。混乱の中で、多くの仕事に忙殺されていた私にとって、同社の組織だったメディア分析とアドバイス、例えばメディアの論調の変化を週ごとに分析し、次にどういう情報を発信するべきかというアドバイスは本当に助かりました。
 

片岡: 社内については如何ですか。
 

平松

何より社員を落ち着かせることが必要でした。子会社を入れると数千人の従業員がおりましたので、毎週月曜日に「社員のみなさんへ」というメルマガを出し、月曜の昼は数百人が参加するタウンミーティングを開いていました。また社長室から出て、全社員の真ん中に私の机を置き、普段よりもわざと大きな声で話をし、そして社内では絶対にため息をつかないようにしていました。事件が起きる前までのライブドアは堀江を中心にITベンチャーのシンボルで、社員は生き生きと誇りを持って仕事をしてきましたが、事件後、社員が下を向くようになっていました。女子社員の中には「母が毎晩電話してきて…」と言っているものもいましたが、やがてその母親も「今度の社長さんは良さそうだね…」と言ってくれたそうです。まだ20代が中心ですから親が安心すると子供も安心します。
 

片岡:

内部分裂はあったのでしょうか。
 

平松

皆が若く、そして地頭、体力、コミットメントの三拍子揃った人間が沢山いて、副社長の清水幸裕(注6)を中心に寝る間を惜しんで頑張っていました。ですから社員が割れることはありませんでした。ライブドアには本当にそうしたイノベイティブなエンジニアが集まっていました。そういう意味で私は、堀江が何をしたかったか良くわかります。インターネットで、日本というよりは世界でのイニシアティブを本気でとりたかったのでしょう。またCGM(Consumer Generated Media)といって、メディアがコンシューマーに対して情報を発信するのではなく、コンシューマーが自分でメディアをつくるという、当時では新しい考え方を非常に早くから取り入れていました。そういうインターネット世界の先を見る、一種の天才でした。だからこそ、超一流のエンジニアや社員を抱えていたのだと思います。
 

片岡:

司法の判断によっては、堀江氏の経営復帰の可能性も考えていたのでしょうか。
 

平松

「私が社長である限り、堀江のライブドアへの復帰はない」と公言していました。司法とは別の次元で、パブリックカンパニーであるライブドア、そして社会を大混乱に陥らせた責任は回避できません。
 

片岡:

他の事件などと比較すると、社会的制裁が重すぎる、或いは国策捜査の色彩があるといった論調も見られたと思いますが、そうした点に対して政治やメディアに訴えなかったのでしょうか。
 

平松

堀江の事もあり、国家権力に対してものを言ったり、働きかけたりすることは逆効果になりかねず、あの時点でのロビイングは効果が期待できないと判断していました。また政治家サイドからのアプローチもなく、特捜も動いていましたし、皆が避けている感じでした。
 

片岡:

マーケットに関しては如何ですか。
 

平松

ビジネス上のストラテジーも決まっていませんでしたので、市場に対しては「潰さずに続け、コアにフォーカスし、ノンコアを売却…」といったことを発信していただけです。但し、新聞等を通じて「コアビジネスの再構築の努力をし、コーポレートガバナンスとコンプライアンスについては外部の協力をえながら立て直しているところだ…」とアピールしました。これは実質的には東証に対するもので、上場廃止を出来るだけ避けるか引き延ばしたかったからです。
 

片岡:

ところで読売新聞の渡邉恒雄氏は平松さんの仲人でもあり、同氏がワシントン支局長だった頃からのお付き合いだそうですね。
 

平松

彼は堀江とは仲が悪かったのですが、私が就任すると直ぐにプレスリリースを出し、エールを送ってくれました。だからこそ、私に対する個人攻撃がおきなかったと思っています。それでもリスク・マネジメントのコンサルタントからは「電車通勤は辞めるように」と指示され、タクシー通勤にしました。TVがいるのに黒塗りの車で乗り付けるのは…と黄色いタクシーを使いました。時折電車を使うと、年配の方が多かったのですが、わざわざ握手を求めて「頑張れ!」と声を掛けてくれる人もいました。それをコンサルタントに言うと、「それでも電車通勤は辞めて、若し電車を使ってもホームの端は歩くな…」等と指示されました。また暴力団の親分が顧問弁護士とともに直接やってきて、ある資産の処分に関して「堀江氏とはXXXという約束をしていたから…」と。真偽は確かめようもありませんでしたが、書面での契約書はなく、何とかお引き取り戴きました。
 

片岡:

ライブドアはニッポン放送を巡る買収合戦の末、フジテレビとの和解で巨額の現金を手にしており、クライシスの状態にある会社にもかかわらず、極めてキャッシュ・リッチな状態で、それがある種の安定も齎していましたね。
 

平松

通常の再建では、キャッシュが足りないのをどうするかということが一番の問題でしたから…。ライブドアにはお金も優秀な社員も素晴らしいサービスもあり、またトヨタやコカコーラ並みのブランド認知度もありました。ないのは信頼でした。これを取り戻すには大変な時間がかかり、未だに完全には回復できていません。
 

片岡:

レピュテーションが激しく毀損していく中、海外の機関投資家たちがライブドアの株を買増していました。
 

平松

その分、大株主への対応は大変で、アメリカ、ヨーロッパ、アジア…と国際電話を使ってテレカンファレスを頻繁に行いました。彼らはキャピタルゲインが主目的ですから資産を早く売却するように迫り、そのうち組合の様なものを作り、取締役会も主導するようになりました。キャピタリズムの観点から言えば当然のことですが、それでも全員が売れというのは、ある意味で異様な状況でした。勿論、私に対しても頻繁にプレッシャーを掛け、実際に解任騒動も起きたともありましたが、不信任案までは出ませんでした。彼らはプロ中のプロですから、不信任案を出すと社員が反対する、世論形成上の問題点がある、もっと混乱が起きる可能性が高い…とキチンと分析をしていたようです。
 

片岡:

コアを含めた徹底した売却を進めなかった理由をお聞かせ下さい。
 

平松

ノンコアは売り、コアに集中する。これが私と私を支えてくれた役員、社員たちの一致した意見でしたし、訴訟を抱えていましたので、コアまでは売却し難いという事情もありました。全敗するリスクはありましたが、これまでの判例を見ると、その20-35%程度で落ち着くという感触はあり、IRでもそうした説明を行っていました。ファンドの興味は、全敗したとしても200億円は残る…、20%ですめば…と、そこだけでした。もっともモルガン・スタンレーは例外的にそうした短期ではない視点も理解をしてくれていました。ところで先程お話したCFOを入れる時に海外の機関投資家からは強力な反発がありました。混乱時にCEOやCFOが内部から不正を働くケースがありうるので心配したようです。例えば、どこかの会社に支払いを立てればいいわけですし、しかもCEOとCFOが結託すれば…。我々の感覚からすれば、そういう見方もあったのかという感じで、そうした心配をしないことは日本人の美徳ですが、同時に弱さの表れでもあります。
 

片岡:

リターンが見込み易い案件だったにもかかわらず、何故、日本の機関投資家はライブドアに手を出さなかったのでしょうか。
 

平松

日本の機関投資家は非常にマイナーでしたし、リターンよりも、ライブドアに投資をしていることでレピュテーションが傷つくことを恐れていたようです。
 

片岡:

会社にとっても担当者にとってもということですね。これも一種の弱さですね。
 

平松

さて、社長に就任して2年ほどたった2008年8月には、単独黒字となり、弥生も710億円で売却することが決まりました。それで私は取締役会に「次の株主総会で、取締役に再任されたくはない。もうやることはやった」と伝えました。2年間、優秀な若い社員に支えられ、彼らに教えられ、育てられながら、私は6年分の仕事をしたと思っています。ところでライブドアは2004年12月に230億円を投じて弥生を買収しました。それは、その頃の堀江にとって最大の案件でしたが、堀江は買収交渉の席には一度も顔を出さず、CFOの宮内亮治(注7)も1,2回出席しただけで、後は全部24歳の投資銀行部門のマネージャーに任せていました。こうした大胆な権限移譲は簡単にできることではありません。また判断も決済も驚くほどスピーディーで、仕事は75%まで来たらジョブ・ダン(完成)し、次の仕事に移ります。粗いし、脇も甘いのですが、スピードがそれを凌駕していました。堀江には早く復活して貰いたいですね。
 

片岡:

米国であれば、復活、そして更なる飛躍をも掴み取るチャンスを与える土壌がありますね。ところで、またライブドアの人たちと一緒に仕事したいと思いますか。
 

平松

ライブドアという会社ではもう仕事をしようとは思いませんが、あの素晴らしい社員たちとは是非、仕事をしたいですね。
 

片岡:

貴重なお話を有難うございました。
 

〜完〜(一部敬称略)

 

 

インタビュー後記

平松さんはハーレー・ダビッドソンの大のファンで、休日は鉄馬を駆りたて六本木ヒルズに出勤、強制捜査の直前の2006年1月11日、還暦を迎えた平松さんに社員から贈られたプレゼントはハーレーの赤い革の帽子だったそうです。今、平松さんは念願のベンチャーの道に進み、「50、60はハナタレ小僧。30、40はヨチヨチ歩き。元気な大人の豊かな後半戦を応援する…」というネットコミュニティーの【
小僧com(注8)を展開しています。

 

  
 

聞き手

片岡 秀太郎

1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。

 
 

脚注
 

注1

http://ja.wikipedia.org/wiki/平松庚三
 

注2

http://ja.wikipedia.org/wiki/堀江貴文
 

注3

ライブドア事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/ライブドア事件
ライブドア・ショック
http://ja.wikipedia.org/wiki/ライブドア・ショック 
ライブドアホールディング(現LDH)
http://www.ldh-corp.co.jp/ 
http://ja.wikipedia.org/wiki/LDH_(持株会社) 
ライブドア (2007年4月に新設)
http://www.livedoor.com/ 
http://ja.wikipedia.org/wiki/ライブドア 
 

注4

http://www.yayoi-kk.co.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/弥生_(ソフトウェア)
 

注5

http://www.prap.co.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/プラップジャパン
 

注6

http://ja.wikipedia.org/wiki/清水幸裕
 

注7

http://ja.wikipedia.org/wiki/宮内亮治
 

注8

http://www.kozocom.com/ (SNS)
http://www.kozo-japan.com/(会社)
 

 


片岡秀太郎の
右脳インタビュー

 

 

 

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  © 2006 知財問屋 片岡秀太郎商店

更新日:2012/10/30