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1944年、ニューヨーク生まれ。UCLA、ハーバード大学院で政治学を、その後ワルシャワ大学、パリ大学留学を経て、1967年に来日。1976年、オーストラリアに帰化。1982年から活動拠点を日本に置く。執筆、演劇活動も行っている。2008年第18回宮沢賢治賞受賞、2009年第27回テヘラン国際映画際脚本賞受賞「明日への遺言」など。現在、東京工業大学
世界文明センター長。
主な著書
『もし、日本という国がなかったら』
ロジャー・パルバース (著), 坂野由紀子 (翻訳) 集英社インターナショナル 2011年
『新バイブル・ストーリーズ』
ロジャー・パルバース (著), 柴田 元幸 (翻訳) 集英社 2007年
『ライス』
ロジャー パルバース (著), 上杉 隼人 (翻訳) 講談社 2001年
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片岡: |
今月の右脳インタビューは東京工業大学
世界文明センター長のロジャー・パルバースさんです。まずは日本に来たきっかけなどお伺いしながらインタビューを始めたいと思います。
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RP:
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私が日本へ来たきっかけは、日本とは一見何の関係もない事件、ソ連による世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げ成功(1957年10月4日)を目にしたことです(注1)。それで天文学とソ連に興味を持ち、UCLAで主にソビエト政治を学び、その後ハーバード大学のロシア地域研究所の修士コースに入りました(UCLAは3年、ハーバード大学大学院は1年で卒業)。もっとロシア地域を知りたくなって、NSA(National
Student Association)(注2)から奨学金をもらってポーランドに留学しました。
同国に滞在中の1967年2月、そのNSAがCIAから違法な資金援助を受けていたことが露見しました。リンドン・ジョンソン(第36代米大統領)政権をも揺るがす大事件となり、大手新聞の一面トップに私の顔写真が掲載され、ゴールデンタイムのニュースにも取り上げられました。私は、事件の発覚の直前にワシントンD.C.にいるNSAの会長から突如電話があり、即刻ロンドンに向かうように指示を受け、ロンドンのアメリカ大使館で事件を知りました。ポーランドに戻れば逮捕されるかもしれず、婚約者がいるフランスに行くことにしました。勿論、私は事件に一切関与もしていませんでしたが、NSAにCIAからフィーを貰っていた人がいて、その人にスポットライトが当たらないように、私に故意に注意を向けさせたのでした。ただ、ポーランド側は私がスパイでないことはわかっていたようです。1970年、私は同国を再度訪問しましたが、本当にスパイだと思ったらそこで逮捕していたはずです。
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片岡: |
ハーバード大の優秀な学生で、しかも数少ないロシア語を専攻。当然、CIAやFBIも早い段階から注視していたのではないでしょうか。
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RP: |
私はCIAにもFBIにも応募していませんでしたが、それでも自分についての分厚いファイルがあったと思います。実際、彼らは私が何も言っていないのに彼女の事も知っていましたし、あの事件の後、CIAのために働かないかとも誘われました。勿論、即座に断りました。ところで、フランス滞在中にルモンド紙に「CIAスパイ容疑のロジャー・パルバース、ワシントンD.C.にて帰任報告」という記事が掲載されました。故意に色々な情報が流されていたのでしょう。その後、フランスの婚約者にもフラれて、茫然自失で帰国しましたが、アメリカに戻っても、私はどうしてもアメリカを自分の国と感じることが出来ませんでした。そうして未知のところに行くのが好きだった私は、日本の事は知らない、それだけの理由で日本に向かいました。1967年9月、羽田に着いた私は日本人を一人も知らなかったし、日本語も分かりませんでした。個人的な悲劇にあって、政治もダメ、恋もダメ。残るのは宗教ですが、無神論者ですから…。それでも若いから最初からやり直そうと思い、だからこそ、来日した最初の日に、なぜかここは自分の国だと感じました。つまりスプートニク、そしてスパイ事件が結果的に私を日本にいさせることにしたのです。
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片岡: |
日本に来る時、若泉敬博士(注3)を頼ってこられたとか。1967年といえば、同博士が佐藤栄作首相の密使として米との秘密交渉に関わる時期ですね。
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RP: |
アメリカにいた時に、米のある大学の教授で、一回だけしか会ったことがない人だったのですが、その人が「私は若泉敬博士という日本人を知っているので…」と紹介してくれました。本当にラッキーでした。若泉先生とは必ずしも見解は一致しませんでしたが、彼は本当にやさしく、素敵な方でした。挫折もあれば、こうした出会いもあります。若泉先生の紹介で彼の務める京都産業大学で教鞭をとっていましたが、いつの頃か先生の様子が変わり、何か悩みを抱えているように見えたことを覚えています。その後、Australia
National University
(ANU)に誘われ、1972年、豪州に移住しました。豪州では芝居、執筆、ラジオ等の仕事もあって、収入面では成功して豪州国籍も取得しましたが、何か物足りなさを感じ、やはり日本人の作家や劇作家、映像作家たちと一緒に仕事をしたい、日本でチャレンジしたい、私の国は日本なのだと思うようになりました。そんな時に大島渚さんから「戦場のメリークリスマス(注4)」を制作するので助監督になって欲しいと誘われ、1982年に日本に戻りました。とても素晴らしい経験でした。結局、スパイ事件にあって、婚約者にフラれてよかったのかもしれません。何かが起こることを歓迎する姿勢を持ち、そして小さな挫折でも、大きな挫折でも、いいことに転換していくのが上手な人生の生き方ですね。
さて、日本の土を初めて踏んでから45年の歳月が流れました。今、私の愛する日本の文化の神髄はどこにあるのかを考えると、歴史を遡れば、そこには反逆の精神が顔を覗かせます。世阿弥、歌舞伎、河原者…、或は生け花や茶道も、そして北斎等も、皆、凄く型破りで、その精神は革命的であり、その裏に潜み、底流にあるのが反逆の思想です。今の日本人に必要なのは、誇りを取り戻すことではなく、この反逆の精神です。特に欧米では「日本人は皆同じ」「誰もが我々日本人という口癖がある」「出る杭を打つ」…と、ステレオタイプ的に思う人が多い。勿論、そういう人もいる、しかし、それこそアメリカでは、皆違う服装をしていて自由なのですが、寧ろ型破りな人は少ないと思います。日本のしきたりをよく見ると、オーソドックスに対する攻撃によって文化が生まれています。明治維新は若い人による革命で、文化も全部否定してしまい惜しいなというところもありましたが、大変独創的な国作りが行いました。
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片岡: |
どう頑張っても伝統文化では旧勢力の大名に負けてしまうので、新しい支配層として、それを否定し、別のスタンダードを打ち出す必要もありましたね。
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RP: |
明治というのは本当に面白い時代です。ストリンドベリ(Strindberg)(注5)の戯曲も沢山翻訳され、ロシア文学も盛んで、ゴーゴリをはじめツルゲーネフ、トルストイを普通の人たちも読んでいた。また明治後期には5万人を超える外国人留学生が日本で学んでいたといわれています(2009年時点で日本の大学等で学ぶ留学生数は13万人)。何故かというと非白人、キリスト教でない国が力のある近代国家を作ったからです。これは当時の欧米の人の発想では考えられないことで、日本人はそれを成し遂げ、世界に示しました。これはアフリカの人、中近東の人、中国の人、インドの人にとっても、最大の贈り物です。その後、残念ながら軍国主義もありましたし、自分たちを白人、支配者と思い優越感を持ち…。どこの国の人だって、酷い地獄への螺旋階段を下ることがあります。私はユダヤ人ですが、ユダヤ人は国を持つ以前は、2000年も、他国に対して攻撃をしたことがない。しかし今では…。
ところでmoral
compass(道徳的羅針盤)という言葉があります。自分の個人的倫理基準です。宮沢賢治は、皆がめいめい自分の銀河を意識しなければならないと言っています。本当は誰もが自分の中に理念や道徳、良心、生き方を持っています。しかし、それを認めず人に譲っている人が多い。その方が責任はないから…。例えば私はベトナム戦争に反対だったけど言わなかった。「大統領のせいだ」と思っているだけの方が易しかった。しかし自分の為したことには責任を持たなければなりません。日本の文化にはその精神が強く影響しています。だから外国で限られた選択肢の中で自身の信念を貫いた杉原千畝(注6)、高峰譲吉(注7)、早川雪舟(注8)に惹かれます。
ところで、私が60年代にこの国に来たとき、安保問題で普通の人がデモに参加していました。今の脱原発運動よりも人が多かった。もともと日本人はおとなしい民族ではなく、皮膚の下で炎が燃えています。かなり奥に潜ってしまっていますが、今こそ、それを表面化させる時期です。確かにアメリカは日本を操るのがうまいのでしょう。例えば日本は戦争を憲法で禁じていながら、アメリカの戦争は日本のお金がなければ成り立たないとも言われています。なぜアメリカの言いなりになるのか、世界中の人には理解できません。
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片岡: |
アメリカにとっては国益の追求は当然ですから、良くないと思うことには日本人が自らNOと言い、そう言えるための決断もその体制も整えなければならない。
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RP: |
アメリカのせいと言うのではなく、それに従っている人の方が大問題です。これはすべて一人一人の心の中にあることです。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は日本で最も有名な詩の一つだと思いますが、この詩は「行ッテ看病シテヤリ」「行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」…と自らに命令する形をとっています(注9)。美辞麗句を並べて多くの人を…というではなく、一人一人とぶつかって、その悲しみや幸せを抱きしめ、自分で何とかしようとしています。私もそうするかもしれない、あなたもそうするかもしれない。そうして世の中が良くなる、まさに道徳的羅針盤です。この賢治の精神が必要でしょう。一方、政治家は「なるべく多くの人を幸福にします」とよく言います。例えばベトナム戦争のときにも「これは私たちの子供とその子供の平和のため」「すべての国が自由になるため」「すべての難民が幸せになるため」…といった発言がありました。私には信用できません。
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片岡: |
貴重なお話を有難うございました。
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~完~
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(一部敬称略)
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インタビュー後記
パルバースさんが天文学とソ連への興味を持つきっかけにもなったスプートニクの打ち上げ成功。それによって、共産主義国で遅れていると思っていたソ連に追い越されたアメリカ国民。その衝撃は凄まじく、アメリカ政府は直ちに独自の宇宙開発プログラムを開始し、巨額の資金を科学教育に投入したそうです。さて、遅れていると思っていた中国に、先に宇宙での有人飛行を成し遂げられ、更に第2の経済大国の座も奪われた日本、国は、企業は、個人はどう動くのでしょうか。
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聞き手
片岡 秀太郎
1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋
片岡秀太郎商店を設立。クライシス・マネジメントとメディアに特化したアドバイザリー事業を展開
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脚注 |
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注1 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/スプートニク計画(最終検索2012年4月1日)
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注2 |
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Student_Association(最終検索2012年4月1日)
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注3 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/若泉敬(最終検索2012年4月1日)
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注4 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/戦場のメリークリスマス(最終検索2012年4月1日)
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注5 |
http://homepage3.nifty.com/nada/page043.html(最終検索2012年4月1日)
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注6 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/杉原千畝(最終検索2012年4月1日)
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注7 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/高峰譲吉(最終検索2012年4月1日)
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注8 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/早川雪洲(最終検索2012年4月1日)
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注9 |
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html(最終検索2012年4月1日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/雨ニモマケズ(最終検索2012年4月1日)
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右脳インタビューへ
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