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第108回  『 右脳インタビュー 』  (2014/11/1)


大下 英治 さん  作家

  

1944 年広島県生まれ。広島大学文学部仏文学科を卒業。大宅壮一マスコミ塾第七期生。『週刊文春』特派記者いわゆる“トップ屋"として活躍。月刊『文藝春秋』に発表した『三越の女帝・竹久みちの野望と金脈』が大反響を呼び、三越・岡田社長退陣のきっかけとなった。1983年、作家として独立。政治、経済、芸能、闇社会まで幅広いジャンルの執筆活動を続け、著書は400冊以上に及ぶ。

主な近書
『内閣官房長官秘録』 イースト新書 2014年
『児玉誉士夫 闇秘録』 イースト新書 2013年
『逆襲弁護士 河合弘之』  さくら舎 2013年
『巨頭 孫正義 ソフトバンク最強経営戦略』 イースト・プレス 2012年
『官僚』  飯島勲、大下英治 共著  青志社 2012年 
 

 
片岡:

 今月の右脳インタビューは作家の大下英治さんです。本日は「児玉誉士夫」についてお伺いしたいと思います。宜しくお願い申し上げます。
 

大下

 私が児玉に興味を持ったのは、20代の頃、大宅壮一の「児玉誉士夫論」にあった一節、「私にとって彼(児玉)は、現在、日本人の中で、もっとも実験的、解剖学的興味をそそる人格の一人であることを告白する。人間児玉誉士夫は、内容はさておいて、正味の“実力者”でこんなのはそうざらにいるものではない。児玉誉士夫と膝を交えて、一晩ゆっくり語り合うことによって私が得た結論は、彼はこういった危機の求道者だということである。少年時代から今日まで彼が歩んできた跡を振り返ってみると、彼はいつでも自らの手で危機を設定し、ときには創造している。自分の身辺に絶えず小さな“戦争”をつくり出し、その中に自ら挺身隊として突入して行くことに最大な喜び、陶酔を感じているのだ。恐らく日本人の中で、その生涯において、彼くらい大量の危機をむさぼり、くぐりぬけてきた者は少ないであろう。言わば、彼は“危機中毒者”である」に特に惹かれてからです。その後、ジャーナリストとして何度も児玉の影を目にします。児玉は、自分の闇を拡大していった男です。「あれは児玉が動いているにちがいない」という噂が立つ。まわりの人が勝手に児玉の名前を使っても、それを否定しない。何故かというと、闇の人たちは怖がられるほどいい。そしてどんどん闇のイマジネーションを拡大していく。虎が猫になったら終わりです。それに児玉のような怖い顔は、現代人にはもういない。暗闇の中から人を食い殺すような眼が覗いている。怪物です。
また児玉は実際に戦前から現代にいたるまでの日本の物凄い大きな出来事にどこかで噛んできました。例えば、第二次世界大戦時、海軍は戦艦が主で、航空部隊にはお金を回せなかった。それで大西瀧治郎海軍中将(特攻隊の創設者)が児玉に児玉機関を作らせて、資金を生み出させた。児玉は戦犯となりましたが、笹川良一、岸信介らと共に生き残ります。そして、戦後、児玉機関に残った莫大な資金で児玉は鳩山一郎の日本民主党(後に自由党と合同し、自由民主党となる)設立を支援しました。
 

片岡:

 それは米国の容認、或は庇護なしには成り立たなかったのでは? 実際、児玉も、岸、笹川と同様、米情報機関との密接な関係も指摘されていますね。
 

大下

 まだ闇の中ですから…。児玉は、東久邇稔彦総理から内閣参与事務嘱託にも任命されるなど、直接政治にも絡んでいましたし、実際には米国もあまりタッチしなかったのではないかと思います。ところで笹川と児玉の違いを簡単にいうと、児玉は、児玉という闇の中にお金を吸い込み、そして政治にも積極的に関わり、政治の裏で動きました。中でも河野一郎と大野伴睦とは密接に連携し、結局実現はしなかったものの、彼らの政権の実現を目指していました。一方、笹川はボートレースの収益があったので、金を貪るのではなく、カネを配った。笹川はある意味で関西商人、人気取りはやったけれど、本質的には政治にあまり関わりませんでした。実はロッキード事件の時も、笹川のところにも福田太郎(ジャパン・パブリック・リレイション社長)が米側のロビー活動を依頼に来たのですが、笹川は相手にしなかったそうです。笹川は偽善者。児玉は露悪家です。
 

片岡:

 ボートレースという強大な利権を持つ笹川にとっては、特定の政治家に肩入れして政敵を作るよりも、ばら撒き、バランスをとっている方がよい…。
 

大下

 まさにビジネス、嘗ての「堺」のようなものです。一方、児玉は政治だけでなく、暴力団にも積極的にかかわっていきました。稲川組(後の稲川会)、或は関東二十日会(関東地方に本部を置く博徒系暴力団の親睦連絡組織)…。力を使い、力の背景で蠢き、世の中を動かす。そういう意味では活動家ともいえます。面白い人物で、利権屋、右翼、フィクサー…と、幾つかの顔を持ちます。尤も、笹川は息子の堯に「今に児玉と小佐野(賢治)と田中(角栄)は金で躓くぞ」といっていたそうです。実際、ロッキード事件(1976年に発覚)を契機に三人は凋落していきます。
 

片岡:

 1959年1月16日、岸良介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作、永田雅一、荻原吉太郎と児玉は帝国ホテルの光琳の間で、「岸内閣を支援する代わりに、後継者は大野とし、その後は河野、その次に(岸の弟の)佐藤栄作とする」とした密約を結びます。しかし、それが怪しくなってきても、結局、児玉は押し返さなかった。つまり、出来なかった…。
 

大下

 もう勝てない。時代がね。それに暴力団が政治を超えることはありません。それにしても岸も強かです。児玉を騙すのですから。さて、児玉は元々、北星会の岡村吾一との付き合いが深かったのですが、北星会はそれ程大きな組織ではありません。その後、稲川角二(後の聖城、稲川会初代会長)と繋がることで、大きな展開を見せた。一方、稲川も児玉と繋がることでより拡大し、また児玉を通して政治に迫った。更に児玉は反共の名のもとに全国の任侠団体を結集し、「東亜同友会」を創設しようと動きます。これは実現しませんでしたが…。
 

片岡:

 1963年、関東会(東亜同友会の結成が失敗した後、児玉の音頭取りで集まった関東の任侠団体七団体)が連署で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と、暗に河野を擁護する「警告文」を衆参両議院の議員の自宅に送付。暴力団が団結して政治に圧力をかけるという前代未聞の政治活動を児玉は実行します。暴力団がこれだけ露骨な行動をとった場合、そのリスクはあまりに大きかったのでは…。
 

大下

 あれは児玉が勝手にやったことです。稲川総裁は私に、「私は知らなかった。あれは児玉が俺たちに相談もなく、勝手にやった」と言っていました。児玉は彼らと繋がり、彼らを利用としましたが、彼らは、児玉と繋がることでは政治を動かそうとはしなかった。結局、この警告文によって、児玉は怖いという印象が政治家や官僚に広がった。では、児玉の力を削ぐにはどうしたらいいのか。児玉を支える暴力団を干上がらせればいい。例えば、現行犯逮捕を原則としていた賭博を非現行でも逮捕できるようするなど、第一次頂上作戦と呼ばれる徹底した取り締まりがはじまります。これはこの関東会を実質的にターゲットにしたものともいわれています。
 

片岡:

 もう一つの力の源泉であった情報力については如何でしょうか。
 

大下

 児玉は、ブラック・ジャーナリストを活用し、闇の情報を握っていました。例えば海部八郎(日商岩井副社長)事件(ダグラス・グラマン事件)も児玉が動いています。この時、児玉は有森國雄(元日商岩井航空機部課長代理)が海部の秘密情報をメモした所謂「有森メモ」をジャーナリストの恩田貢から入手しています。また独自の情報網を持っている高利貸しの森脇将光のような人物からも情報を入手していました。森脇は料亭の下足番にカネを握らせ、客の情報を入手しており、そのメモが造船疑獄の火付け役となったことでも知られています。児玉がいくら払っていたかは分かりませんが、児玉のところにはこうした情報が流れてくる。そしてそうした情報を使って更に重要な情報を入手する。これは児玉に逆らったら殺されるのではないかという恐怖感があったからこそうまく働きました。
 

片岡:

 権力者や企業の内紛等の、一番弱いポイントに介入し、更に力をつけていく。情報に金と暴力が繋がると実に効果的です。ところで、児玉は韓国政府とも密接な関係だったそうですが、外国政府には児玉のような人物と繋がるメリットは大きかったでしょう…。
 

大下

 児玉は韓国ロビーでした。日本の韓国人暴力団グループ、東声会会長の町井久之と繋がり、韓国利権を手にしていました。町井は韓国の朴正煕大統領と親しく、児玉と朴大統領の橋渡しをしたと言われています。児玉と町井は日韓国交正常化の舞台裏で暗躍、岸をはじめ、大野、河野、川島正次郎ら、所謂韓国ロビーの言われた政界の実力者たちと韓国との橋渡しもしていました。
 

片岡:

 米国にとっても利用価値の高い存在だった…。尤も児玉を潰したロッキード事件も、その米国の関与が言われていますね。
 

大下

 米ロッキード社は児玉を「日本の防衛省」と呼んでいたほどですが、それは、どちらかというと米国の個々の企業にとって良かった…。ロッキード事件については、まだまだ闇の中ですが、もともとは国家ではなく、個人、個別企業の問題で、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャンは日本を潰そうと動いたわけではありません。田中が石油利権或はウランで米国に断りなく動き、石油メジャーという米国の虎の尾を踏んだからだとも言われますが、真相はまだ良くわかりません。米国が本気で動いたか否か、「そうであろう」、それ以上はいえません。だけど時代です。児玉、小佐野、田中という三巨頭は戦後の最後の雄叫びでした。もしロッキード事件がなければ、田中は闇将軍ではなくもう一回光の世界、つまり総理をやりたかった。永田町用語でいう成仏できなかった…。ところで、ロッキード事件では三人が動いたのですが、角栄は児玉と会っていません。角栄と小佐野は繋がり、小佐野と児玉は繋がっている。しかし、田中は児玉嫌い、イデオロギーを嫌い、彼程右翼と離れたものはいません。経営者だった。ここが面白いところです。
 

片岡:

 本来であれば、政治家が、そうしたクッションを置くのは理にかなう、それこそフィクサーの役割だったともいえます。尤も当時は、政治が闇の力を公然と使った時代でもありました。例えば、1960年の日米安全保障条約改定の自然承認を前に、激しい反安保運動が巻き起こる中、アイゼンハワー大統領の来日が決定しました。この時、自民党安保委員会は、警備力の不足を補うために任侠団体に協力を要請、任侠団体は3万人を超える構成員の導入を進めました。最終的にこの来日は中止となりましたが…。戦後の混乱の中で、政治は闇の力を活用し、時代と共に使い捨ててきました。
 

大下

 いずれにしても使い捨てられたら負けです。彼は子分に「俺が全部しゃべったら、日本がひっくり返る」と言っていたそうです。ところで、児玉の子分の一人、太刀川恒夫は、その後、中曽根の秘書になって、また児玉のところに戻り、そして東京スポーツ新聞社の社長となりました。またNHKや朝日新聞の社長などが参席する美空ひばりと小林旭の結婚式で立会人にとして山口組の田岡一雄組長が挨拶する、そういう時代です。
 

片岡:

 児玉は当時の社会構造を凝縮したような存在ですね。
 

大下

 面白いことに、日本社会のそういう闇の繋がりを封じたのは米国です。総会屋対策にしても、暴対法にしても、米国が動きました。米国企業が日本に入りにくかったりするから…。
 

片岡:

 バブルの後も、米国の情報関係者が大挙し、日本の暴力団と政治や企業との関連を調べたと言われていますね。その後の外資ファンド等の参入はまだ記憶に新しい…。さて、現代もフィクサーのような存在はいるのでしょうか?
 

大下

 今は、もうフィクサーは存在しなくなりました。何故かというと、魚は水がないと生きていけないように、フィクサーは闇がないと生きていけない。今はその闇が失われている。自民党では金丸信の佐川急便事件が最後といっていいのかもしれません。ところで、褒め殺しはどうやって生まれたかご存知でしょうか? 日本皇民党の稲本虎翁総裁に、大島竜a隊長が「今度右翼をやるのだったら、どんな本を読めばいいのでしょうか?」と聞いたら、稲本は「これだけ読めばいい」と多様な視点から物事を見るべきだというエドワード・デ・ボノの水平思考の本を渡しました。そこから褒め殺しが生まれました。悪口を言うのではなく、褒めたらいい。「竹下(登)さんはいい人だ、お金儲けの上手ないい人だ」と。警察もこれは止めることができなかった。中曽根康弘は「あれを止められなければ次の総理にするわけにはいけませんよ」と竹下と金丸にいいました。竹下は円形脱毛症にもなってしまうほどで、一度、総理になることを諦めたのですが、金丸は「貴方は一人の体ではない。おどおどするな。俺がやってやる」と、佐川急便社長の渡辺広康に稲川会会長の石井隆匡との仲介を依頼します。その前にも暴力団と縁の深い浜田幸一に依頼していたのですが、うまくいっていませんでした。しかし、今度はピタッと止まります。この時は、石井はお金を全く取らなかったという説もあります。石井には小佐野のようになるという野心があった。だから貸しを作る方がいい。金丸らが、パンクしなければ、石井はもっともっと大きくなっていたかもしれません。
 

片岡:

 実際、事件後、佐川急便だけでも石井の関連会社に対して、数千億円に上る融資や債務保証を行いましたね。ところで、闇がなくなっているのとのことでしたが、暴力団はマフィア化してきていると言われていますね。
 

大下

 暴力団とマフィアの違いは、例えば端的にいうと、昔、山口組の組員は組の名刺を出していましたが、マフィアは、裁判長であるAも政治家であるBもともにガンビーノ一家だとしてもお互いを知らない。知っているのはトップの限られた人たちだけです。今や日本の暴力団も企業舎弟を使ってマフィア化し、どんどん正体が見えなくなってきています。しかし、それはもはや国を転覆するような巨大な闇ではない。例えば金融詐欺のような事件です。昔は比較的簡単に大きな裏金を作れた。嘗て土木事業では、角栄は3%とったと言われています。今はメディアも発達し、企業のコンプライアンスも厳しくなって、また内部告発もありますので、裏金が動き難くなってきました。だから、フィクサーも動けない。今も政界には、そういうところがまだ一部ありますが、政治家もうまい話を掴めない、大きなお金が作れなくなってきていますし、企業もあまり裏金を出せなくなっています。パーティーではたかが知れています。今の政治家は、昔に比べればボランティアの様なものです。それなりに一面、民主的になったということですが、例えば、政治家と民間とか、もう少し繋がってもいいような気がしています。ばらばらになって、大きな人間が育たない…。児玉誉士夫は時代が生んだ怪物であり、最後の悪党、闇の時代のカリスマです。
 ところで、児玉は、三島由紀夫が自決したとき「三島君は凄い。一緒に命を共にした人がいた。俺には一人もいない」といったそうです。皆から恐れられた児玉軍団を持ちながら、一人の男すら、一緒に死ぬ者はいない。俺は、結局なんだったのだろうか…。児玉と利権で繋がっていたものは多いが、右翼人、児玉誉士夫とみた場合、情において、児玉と共に命を散らしてもいいという人間が一人もいなかったことは悲しい…。

 

片岡:

 貴重なお話を有難うございました。
 

   
 〜完〜 (敬称略)


インタビュー後記

 今でも時折、企業買収等においても闇の勢力の関与が取りざたされることがあります。大きな利権が絡み、多額のマネーも動くことから、経営陣や株主等にとっては、そうした勢力を引き込むインセンティブがどうしても強く、またそうした勢力からのアプローチも起きやすい、まして相手がそういう力を使う可能性がある、実際に使うとなればなおさらです。
児玉も企業の乗っ取りや株の買占め等、数々の事件の背後で暗躍します。例えば、1960年、富士屋ホテルで経営権を巡ってオーナー一族間で内紛がおこります。まず経営権を持たない一派が、経営権を取得するために横井秀樹に介入を依頼、横井は30万株を買占めます。そこで反対派は小佐野を頼ります。更に小佐野は児玉を引き込み、小佐野・児玉陣営の勝利となります。この時、横井は負けたとはいうものの、株を小佐野に売却した代金4億円超を等々力の家で受け取ります。それを横井は数時間もの間、一枚一枚、全部数えた…。「横井は凄いよ」と、児玉もさすがにびっくりしたそうです。(敬称略)
 

聞き手

片岡 秀太郎

 1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。




右脳インタビュー

 
 

 

 

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  © 2006 知財問屋 片岡秀太郎商店

更新日:2014/11/01