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第114回  『 右脳インタビュー 』  (2015/5/1)


長谷部 恭男 さん 

早稲田大学法学学術院教授

  

1956年広島県生まれ。1979年東京大学法学部卒業。学習院大学法学部教授、東京大学法学部教授等を経て、2014年より現職。ロンドン大学客員研究員、ニューヨーク大学客員教授、国際憲法学会副会長、東京大学法科大学院長等を歴任。

主な著書:
『憲法学のフロンティア』(岩波書店、2013年)
『法とは何か---法思想史入門 』(河出ブックス、2011年)
『憲法の理性』(東京大学出版会、2006年)
『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)
 

 
片岡:

 今月の右脳インタビューは、長谷部恭男さんです。まずは憲法の意味について、簡単にお話戴きながらインタビューを始めたいと思います。
 

.長谷部

 そもそも国家というものは頭の中にしか存在しない約束事にすぎません。しかし、そうであるにもかかわらず、国家は、生身の人間と同じように、他の国と交渉したり、戦争したり、国民の財産を没収したり、会社と取引します。例えば、国家が戦争するとき、爆撃機を操縦するのは生身の人間ですし、税金を徴収するのも税務署の職員で、その人たちは国の機関として行動しています。なぜそうしたことができるかというと、法律によって権限が与えられているからですし、なぜ法律がそうした権限を与えることができるかというと、憲法が国会にそうした法律を制定する権限を与えているからです。つまり、憲法の実質的意味は、誰が国家の名において行動することができるのか、そうする際にどのような手続きを経て、どの範囲の行動をすることができるのかを定めたものです。
 ですから、そういう意味では、少なくとも近代世界以降は、戦争を何のためにやるかというと、憲法を守るためだと言えます。冷戦時代に大量破壊兵器をもって、相互に対峙していたのは、共産主義とリベラル・デモクラシーという憲法の基本原理をそれぞれ守っていたわけで、それを守る必要がないというのであれば、戦争をする必要も核兵器で対峙する必要もありません。冷戦が終ったということは、少なくとも表向きは戦争をする必要はない、体制も守らないということで、実際、東欧諸国の多くがリベラル・デモクラシーになった。今度は、リベラル・デモクラシーを守るためにいざとなったら戦争をすることもあるかもしれません。
 

片岡:

 集団的自衛権については如何でしょうか。
 

.長谷部

 安倍首相が、ご本心でどう考えているかはわかりませんが、これは従前の憲法解釈の範囲内だといっています。簡単に言うと、従前は、集団的自衛権を行使しないとしてきたが、それは部分的には認められるもので、国民の生命自由幸福追求の権利が根底から覆されるような事態においては集団的自衛権が認められる、これは従前の解釈と繫がっているのだというのですが、それがどれほど説得力を持つかというのとは別問題です。
 

片岡:

 十分な説得力があるとお考えですか?
 

.長谷部

 説得力はないと思います。ですから、もし主権者が、それを変えたいのであれば、一つは選挙という手段がありました。しかし、前回の選挙では、主権者には安倍政権を退陣させるという選択肢がありましたが、そうしませんでした。もう一つは、仮想の設定になりますが、集団的自衛権の行使に踏み出した時に、その命令には従えないという自衛隊員が現れた場合、内部の懲戒処分、自衛隊法上の罰則があります。その手続きが始まれば、そうした中で議論になるということがあるでしょう。
 

片岡:

 つまり具体的にそうした事例が現れてからしか、裁判は活用できないということでしょうか?
 

.長谷部

 裁判の基本はそうです。社会全体にその影響が及ぶというのであれば、そういう問題は民主的に決めてくださいということになります。
 

片岡:

 どちらにしても、戻るまでの時間はかなり長くかかりますね。そういう意味では、これだけの転換を行う実質的な力を、制度上、総理大臣に与えているということですね。
 

.長谷部

 日本の場合、弾劾はなく、不信任案の可決程度です。あとは、選挙で負けるまではない。尤も、日本の場合、国政選挙は1.5年に一度あり、他の国より非常に短い。例えばフランスは5年です。1.5年に一度の国政選挙があるというのがいいのかどうかは問題がありますが…。更に内閣が勝手に解散する制度もあります。これはいわゆる統治行為にあたるので、最高裁も違憲性の有無を審査しないといっています。理屈は、高度に政治的な問題で、結局は国民が決めることだとしています。つまり、政治部門の言う通りにしますということで、これほど、高度に政治的といって丸投げしているのは日本ぐらいです。
 さて、最近憲法を改正して緊急事態条項を入れるという話がありますが、緊急事態条項を入れるとなれば、司法的な監督がリベラル・デモクラシーの標準装備として必要となります。そうなると、緊急事態というものは元々物凄く高度に政治的なものですから、そこに裁判所をかませざるを得なくなって、裁判所は統治行為だなどと言っていられなくなります。つまり、その結果、解散権の行使の合憲性や日米安全保障条約の合憲性についても裁判所が判断せざるを得なくなります。ですから緊急事態条項を入れるような憲法改正を実現するのであれば、「統治行為だから」というものを放棄せざるを得ないということです。
 

片岡:

 最近法改正が増えてきているようですね。
 

.長谷部

 私が若いころと比べると、信じられないくらいのスピードです。良い面もありますが、法の支配という観点から言うと少し問題があります。法が何なのかわからなくなっていて、専門家ですら追いかけられないような速さです。しかも法律の名称だけを変えるように、意味もなく変えているようなものまであります。例えば酒気帯び運転が厳罰化され、社会的にも酒気帯び運転で捕まったらクビになったというようなことが起きていますが、数年前までありえなかったことだと思います。これにはメディアの影響が大きく関与しており、何か突破的に世間の耳目を集めるようなことがあると、こうしたことが起きます。昔は酒気帯び運転を厳罰化しないでも、全体としてはそれほど困っていなかったし、東京の人だったら、いいのかもしれませんが、地方では生活にも支障がでるかもしれません。そもそもそれを厳罰化したからといって、どれほど効き目があるのかも疑問です。効き目のない法律というものはない方がいい。これは、ことの性質にもよりますが、憲法で保障されている自由というものが前提にあり、その自由を政府が規制するのであれば、その目的に対して、必要にして合理的な関連性のある範囲でないと正当化できないと思います。個々人の自由が出発点で、政府は後から作ったものです。これが原則です。
 

片岡:

 どんどん変えて、法が変わることに慣れさせているという側面もあるのでしょうか? 例えば、将来の憲法改正に向けて…。
 

長谷部

 そこまで考えてやっているとは思えません。一つ一つの法律は各所管の官庁がやっていることですので、政権とは関係ないと思います。いずれにしても、意味がある改正ならばいいのですが…。
 

片岡:

 法的な側面では、日本も米国のようになっていくのでしょうか。
 

長谷部

 米国の場合、基本が判例法で、法律の作り方が、事細かなことが書いてあって、しかもそれが何々の法律、何々の法律…と、全部を読まないと分かりません。分からないからこそ訴訟も多い…。米国の法律家の職業利益のためにそうなっているのではないかと疑うほど、専門家に頼まないと、わからない仕組みになっています。一方、日本の場合、原則だけが描いてあって、後は、裁判官に解釈してもらう。だからこそ、裁判官の質を一定にしておかなければならないのですが…。これは、ヨーロッパの大陸法の考え方です。今後、日本の法律が米国や英国のように解り難いものになるということはあり得ないと思います。それぞれの社会の伝統もありますし、例えば学校では基本的に自分が習ったものを教えるものですし、内閣法制局を中心とする法制官僚は、法律というものはこうやって作るものだという職人芸を代々伝えています。だからそう簡単には変わりません。
 

片岡:

 法律の在り方によって、社会構造に特徴的な違いがあるのでしょうか? 
 

長谷部

 はっきりとは言えませんが、例えば、大陸法であるフランスは典型的な官僚国家で、経済界、政界を含めて官僚の力が強く、一方、米国は、官僚の力はそれほど強くない。そういう違いはあるかもしれません。フランスでは、超エリートはENA(École nationale d'administration:フランス国立行政学院)に行き、その中でも特に成績が良い人たちが行政裁判官になります。しかし、彼らは一生涯、裁判官をやるというのではなく、色々な省庁にも行くし、ある一定の年齢になって政治家になる人もいて、大半の大統領はENA出身です。またフランスの大企業は凡そ、国と密接ですから、そういうところの経営トップになったりします。だからといって、官僚の裁量が広いかはわかりません。トップ・エリートが行政裁判官につき、その行政裁判所が官僚の裁量をコントロールしていますので…。ただ全体としてみたときに、ENAの出身者がフランスのトップを牛耳っているということは言えます。
 さて、昔は東大法学部がフランスのENAにあたるものだったのでしょうが、もはや昔日の面影はありません。というのは、戦後の日本は、民主主義を額面通りに受け取ってきた。みんな平等だと。しかし、民主的な社会はとかく、エリートや特権集団を攻撃するような言動が流行りがちです。そこに理由がないわけでもないのですが、市民が必ずしも社会全体の長期的な利益を見通す余裕も能力もないという状況の中で、こうしたエリートや特権集団を叩き潰してよいのかという視点があるのも確かです。米国の場合は、一定の特権集団が色々あって、彼らは、まず、自分たちの利益を実現しようと追求する。そういう集団間の競争が、結果として社会全体に利益をもたらすというのが、米国の社会の在り方です。
 

片岡:

 米国では人種構成が変化し、また二極化していく中で、人口(票)では圧倒的に少ない、一握りのエリート層や特権階級が寄付金の制度などを最大限に活用して、政治をコントロールしているとの指摘もありますね。
 

長谷部

 私は、憲法上は非常に問題があるのではないかと思っておりますが、米国の最高裁は「お金も言論である」として、お金を支出することを制限することは表現の自由の侵害だといっています。これはアメリカ特有のことです。日本の政治資金規正法は米国であったらたちまち憲法違反でしょう。よく言われているのは、最高裁の9人の判事の中で、共和党に指名された人たちがmoney is speechだと。これは人口の圧力を削ぐために作ったかどうかはわかりませんが、確かにそうした効果はあります。
 

片岡:

 法律も憲法も、力のバランスの上に成り立っていて、一見、民衆のためになっているようでも、よくよく見ると、その法、或は体系全体を作った人、作らせた人の利益がしっかりと反映されている…。
 

長谷部

 トラシュマコス(前 430〜400年頃活躍のギリシアの修辞学者)がいうように、勿論そういう面もあります。そもそも自分の損になることはしないものですし、それがない法律というものはありません。ですから立法する人間の利益になることは前提ですが、それでも日本はリベラル・デモクラシーですから、やはり、政府のいうことを聞きましょうという人の利益になっています。それは理屈だけではなく、実質もそうでなければついてきません。力の強い人が何でもできるということもないし、仮に独裁者であっても、必ずしも意図したことと結果が一致するわけではありません。
 

片岡:

 貴重なお話を有難うございました。
 

   
 〜完〜 (敬称略)


インタビュー後記

 世界情勢が大きく動く中で我が国も、そして国民も大切な選択を迫られ続けます。長谷部さんの著書「法とは何か 〜法思想史入門」は、星の王子さまの「ボクは君と遊べない。飼い馴らされていないからね、とキツネは言いました」という一文からはじまり、こうした時代こそ必要な、国との関係、法の意味をやさしく解き明かしてくれます。
 

聞き手

片岡 秀太郎

 1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。


   
 


右脳インタビュー

 

 

 

 

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更新日:2016/03/29