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1936年鹿児島生まれ。防衛大学校応用化学科卒業。陸上自衛隊入隊後、第7師団戦車大隊、中央調査隊、第1師団偵察隊、中央資料隊、防衛研修所戦史部等を経て、防衛大学校教授(1等陸佐)に就任。現在、戦略研究学会顧問、クラウゼヴィッツ学会顧問、孫子経営塾顧問。
主な著書
『大東亜戦争 敗北の本質』(ちくま新書) 2015年
『撤退の本質』(日経ビジネス人文庫) 森田松太郎,杉之尾宣生共著 2010年
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片岡: |
今月のインタビューは杉之尾宣生さんです。「撤退」についてお伺いしながらインタビューをはじめたいと思います。宜しくお願いします。
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.杉之尾: |
撤退の難しさは軍隊に限るものではなく、あらゆる組織は、一度、組織として「こうやる」と決めると、止めるのはなかなか難しいものです。元大本営参謀で、戦後、伊藤忠の会長も務めた瀬島龍三は、大東亜戦争(第二次世界大戦)でガダルカナルの撤退作戦を、伊藤忠でイランからの撤退を担当していますが、「ガダルカナルの時もイランの時も撤退しなければいけないと皆がわかっているのに誰も言い出せなかった。心理状況は同じだったのでは」と述懐しています。これはイデオロギー集団でも同じで、安田講堂事件のように全共闘集団でも、中にいた人たちは合理的に考えると潮時だとわかっているのに言い出せなかった。その後、東大教授となった嵯峨一郎は「もうダメだと思っても、それをいうと裏切り者になるから言えなかった。警官に拘束された時、これで助かったと涙が流れた」とNHKの番組でいっておりました。大東亜戦争でも、ポツダム宣言を受託するかどうかというような時になってもまだ中々言い出せなかった。まともな軍人であれば、誰でも軍事的な手は打ち終わっていると思っていたはずです。でも誰がそれを言い出すか…。
山本七平の『「空気」の研究』(文藝春秋、1977年)を参考にして、日本的集団思考、集団主義、行動様式等と、日本特有であるかの如く、いったこともあるのですが、その後、見ていると、こうしたことは洋の東西を問わず、同じ傾向がみられ、ごく平凡な言い方をすれば、組織集団の負の面、すなわち官僚制機構の逆機能現象噴出してしまうということです。尤も、日本は「空気」的な比重が大きかったのも事実と思いますが…。
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片岡: |
日本の戦い方そのものが、元々撤退を考え難くさせていたというようなこともあるのでしょうか?
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.杉之尾: |
ロシア軍は敵に勝る圧倒的な兵力を集中しない限り攻撃を始めない傾向があって、集められるだけの戦力を集め、十分な準備をします。日本でも、秀吉は、まずそういうものを整え、部下が楽々と勝てるような状況を作り上げました。しかし、帝国陸軍は「敵の態勢未完の弱点に乗じて奇襲的にやる」ということで、「戦機」、「タイミング」を重視する傾向がありました。ガダルカナルに上陸した日本軍は行軍中、米国の大戦陣地を発見した。ならば「今夜、奇襲だ」と決め、どういう陣地構成かもよくわからないまま夜襲をし、一晩で900人中700人を失いました。本来そういう時は一呼吸置くべきです。たとえ相手の2分の1の兵力だとしても攻撃しなくてはならない場合もあるのですが、それでも鉄条網があるのか、地雷があるのか、機関銃がどこにあるのか、白兵銃剣で突破できるのか、その程度のことは少なくとも考えないといけないのですが、それを考えないで兎に角やる。これはもうDNAになっている…。だから失敗も多い。普通、どこの軍隊でも、一回やってダメだったら、止めて、別の手立てをとるのですが、日本は何回も同じパターンを続ける傾向があります。相手も不思議だったはずです。なぜ日本はこんなに失敗を学ばないのか…。
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片岡: |
そもそも帝国陸軍の将官の指導書『統帥綱領』は、撤退に関する記述は少なく、また個人の能力を重視し、精神主義的傾向が強いですね。
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.杉之尾: |
統帥綱領には合理主義に反する記述が多く、例えば「敵情不明は戦場の常、いたずらに敵情解明に汲々として戦機を失ってはいけない。そういう時は任務に基づき断固としてやらなければならない」「武器がなくなっても、補給がなくなっても最後まで頑張らないといけない」といいます。それは気持ちとしてはわかりますが合理的にいってありえないことなのですが、帝国陸軍出身の先輩たちも、我々をそうやって教育していました。果たしてそうだったのかと思って聞いているのですが、全く納得いかず、だから負けたのではと反論したくもなりました。統帥綱領は軍事機密ですから陸軍大学校の卒業生くらいのごく限られた人しか見られない。将校は何万人もいましたが、陸軍大学校の学生は毎年50人くらいです。そして第一線では、連隊長や中隊長らが拳拳服膺する。金科玉条という言葉がありますが、まさにそうなっていきました。批判を許さない雰囲気が醸造され、また基本マニュアルにそういう事が書いてあると、歩兵操典などの下の方のマニュアルもそういう思想で統一され、作戦・戦闘指導は画一化され、硬直化されていきました。
私たちは結果を知っていますが、結果を知らない当時の軍人たちが批判をするのは相当に難しかったでしょう。今の陸上自衛隊は、世界随一の軍隊だと私は思います。それは、やはり帝国陸軍の先輩たちが鍛えてくれたからこそ、ここまで成長できました。お世話になった先輩たちに向かって、歴史の後知恵で批判することには、やはりおもんばかるところもあります。かくいう私も現役時代は何も言えませんでした。いったん、人間は組織に入ると…。そういう中でも自由で、批判精神を失わないということは非常に重要なことで、クラウゼヴィッツは戦争論(1832年刊行)で、「軍人にとって一番重要な精神的要素は批判的精神だ」と述べています。そういうところをもっと帝国陸海軍も重視すべきでした。
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片岡: |
元々、撤退の決定はどの組織にも難しい。また、「こうだ、行け」といっていた人間が、「いや、今度はこっちだ」といっても、リーダシップが崩壊しかねないこともある。だからこそ、トップのクビを切る仕組みが必要なのであって、新しいトップの下でやっと方針転換が図れるともいわれていますね。
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.杉之尾: |
西部劇を見ていると、よく部隊指揮官と若い小隊長が論争をします。色々な選択肢で対立しますが、最終的に部隊指揮官が決定を下し、勿論、小隊長は命令に従います。そのとき部隊指揮官は小隊長に向かって「お前の意見は文書にして残しておけ」といいます。なぜ、そんなことをいうのでしょうか? それがあれば、軍法会議があった時に、「何月何時の時点で、誰々がこういう意見を進言した。指揮官はそれを採用せずに、別の意見をとって部隊は全滅した」となります。小隊長は名誉を回復し、組織は知的資源を蓄積します。軍法会議は個人の責任を問うと同時に、戦訓、良い教訓、間違った教訓を取り出して蓄積する機能を持っています。そういったことが、米国はおそらく機能をしていたと思います。大東亜戦争中も、米国は頻繁に指揮官を更迭し、また必ず軍法会議で白黒つけていました。しかし、日本は殆ど軍法会議をやっていません。特に将官クラスについて軍法会議が行われたという記録を私は知りません。将官が原因となって大敗を喫したということがあっても、不問に付した。別な表現をすると「臭いものにふたをすれば蟻地獄」です。
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片岡: |
知的資源という意味では日露戦争の記録でも、失敗等は適切に扱われなかったそうですね。
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.杉之尾: |
日露戦争で海軍は確かに日本海戦で圧勝しましたが、陸軍はたまたま負けなかったというだけで、勝てる戦ではなかった。しかし日露戦争後、陸軍は膨大な戦史を編纂しました。陸軍参謀本部編『明治三十七八年日露戦史』は、公刊戦史としては、質、量ともに備わったものでしたが、元々編纂に当たって「陸軍にとって不利・不名誉なこと」や「失敗したこと」などを記述が禁止されていました。こうして先人が血と汗で勝ち取った貴重な教訓の宝を、無駄に葬り去ってしまう大過を犯しました。参謀本部は高等統帥の研究に資するために『日露戦史』では取り扱われなかった「作戦上の秘密事項」及び「大本営以下の腹案」なども対象とする「明治三十七八年秘密日露戦史」の編纂に着手しましたが、何故か第三巻で中止となってしまいました。極めて貴重な資料でしたので中止となったのは本当に残念です。
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片岡: |
そうした戦史等の活用については如何でしょうか。
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.杉之尾: |
戦史の多くが機密指定されたために、陸海軍内部ですら十分に活用されることはありませんでした。また日本は、瑕疵のあった日露戦史による輝かしい大勝利の要因が無形戦力、とりわけ精神戦力と指揮統帥の卓越にあったかのように錯覚し、更にその誤認・錯覚した過去の成功体験に過剰適応するような方向に、陸軍の運用構想、戦力整備、教育訓練を傾斜させていきました。欧州大戦でも、帝国陸軍は、将来戦の様相を検証する重要な契機として捉え、極めて重視して調査研究の体制を整えて対応しました。しかし、戦史研究の態度が問題で、白井明雄元陸将は「戦史は、戦略・戦術の母であるが、当面の軍事教義(ドクトリン)の確立に資するために、戦史的史例を集めると主客転倒することになる」といっています。帝国陸軍は、独仏国境で戦われた西部戦線の塹壕陣地戦については、特殊例外的な戦例と見なし、その強大な重砲火力の威力には余り関心を払わず、物的戦力の影響力に対する視点を見失いました。一方、東部戦線での運動戦、特にドイツ第八軍が大胆な包囲・迂回の運動戦によりロシア軍主力を捕捉したダンネンベルグ殲滅戦による果敢放胆な態勢戦術は高く評価し、我が国軍の戦術教義の形成に大きな影響を及ぼしました。その後の軍事科学技術の進歩発展を基軸とする作戦・戦闘様相の変化が生じているにもかかわらず、是正されることなく大東亜戦争に突入してしまいました。
ところで、学者は史実を積み重ねることを重視し、“if”をあまり論じませんが、しかし、多くの“if”を論じることによって、その時代の特質、問題を抉りとることもできます。クラウゼヴィッツは、戦争論の中で「実際には行われなかったが、その時の諸条件の下で、行うことが可能であった戦闘については検討してみる必要がある。そうすることによって重要な教訓が抽出できる」といっています。我々は自衛官として戦史を研究するのですから“if”を大いに論じたいと思います。
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片岡: |
貴重なお話を有難うございました。
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〜完〜 (敬称略)
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