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片岡:
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第7回の右脳インタビューは株式会社箸勝本店(注1)
代表取締役の山本權之兵衛さんにご登場戴きます。本日はご多忙の中、有難うございます。それでは最初に『お箸』の文化的な側面をお伺いしたいと思います。宜しくお願い致します。
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山本:
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先ず重要なのは聖徳太子が制定した『箸で食する日本の食法』です。これは大陸文化と異なる日本の食文化の発達に大きく寄与し、今日の和食文化を支えています。当時、公家や武家が自前の料理人を抱えて他の公家や武家に料理を振舞うことが争いを無くし融和する大切な手段として流行しました。この事がより上手な美味しい料理と器の発展につながったわけですが、同時に儀式としての様々な作法が包丁と真魚箸(マナバシ)(注2)で行なわれ、現在も残る各流儀の源となっています。また西洋料理は皿の上で切り分けることが必要で、その後にフォーク、スプーンで口に運ぶ未完成料理であるのに対し、日本料理はそのまま箸で口に運ぶだけですので完成料理とも言われます。特に日本人は米を主食とする農耕民族であるために、箸で食する事が手指の器用さと工芸技術に長けた民族に育てたと言っても過言ではありません。また日本の器は深鉢、深皿が多いのですが、西洋では比較的平面皿を用います。これも箸とスプーン、ナイフ、フォークの様式の違いを表します。
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片岡:
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精神面では如何でしょうか?
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山本:
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日本では箸を神(天)と人を結ぶ生命の架け橋と見る事があり、古代から神に収穫を供え感謝する各地各種のお祭りに於いて人々に供物を分け与える神器の一つとして箸の存在がありました。また美しい器に見事に盛り付けられる和食料理は、先の細い箸で手先の器用な料理人によって行なわれます。だからこそ、この文化的な役割を持つ箸を販売する事は単に木の片を売ることでなく、特に日本の白木文化の一端を担う大切な役割と考えています。日本は木の国なのです。遷都、遷宮に見られるように数十年毎に建物、神殿を新しくする日本の文化は独特なもので、例えば、ペリー提督(Matthew Calbraith Perry)来航の時の江戸幕府のもてなしは全て白木造りの食器で行なったとあります。一回の使用でその役割を終える割箸は日本人の一期一会、汚れ(けがれ)、不浄、他人の使ったもので口に運ばない習慣を端的に表しています。
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片岡:
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箸勝本店は宮内庁御用達の高級割箸店として、たくさんの素晴しい贔屓筋をお持ちと聞いております。そのような名店には旧き良き時代から引き継がれた独特な文化と風情、所謂タニマチ的なひびきと歴史を感じます。
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山本:
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有名店、高級店にはその美味と店の構え、店内の雰囲気によって、政治家、財界人、タレント、文化人がそれぞれ好みで愛用します。銀座『久兵衛』(注3)は吉田茂(注4)をはじめ、池田隼人、佐藤栄作、大平正芳といったいわゆる『吉田学校』の歴代総理大臣や鮎川義介(注5)や浅野総一郎(注6)等の財界人、そして北大路魯山人(注7)、志賀直哉といった文人など各界の著名人に贔屓にされてきました。中には鮎川や浅田のように店の開店を手伝ったり、職人を自宅に住まわせたりしたものもいます。また彼らは若い政治家や芸術家に閉された社交場でもある名店を『つけ』で自由に利用させてその様な世界を肌で感じさせたりもしています。
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片岡:
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まさに『粋』ですね。そのような面では、青年将校と呼ばれた中曽根康弘代議士を実力宰相に育て上げた『大正会』も、メセナ的な役割を担う独自な文化を持っていたと聞いております。それでは次に、御社のご創業についてお伺いしたいと思います。
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山本:
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箸勝は明治43年に創業し、それまでは奈良の吉野で材木を取扱っていました。吉野近隣は日本一の杉、ヒノキの産地で、1000年以上前から京都、奈良へ建材を供給しており、その端材や間伐材でお箸が作られます。江戸、大正と東京の人口が増加し、下市(注8)から東京への出荷量も拡大、そのシェアの大部分を担いました。そこで神田に店舗を構え今日に至っております。
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片岡:
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昨今、輸入材に押されて国内の林業が衰退しておりますね・・・
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山本:
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元々日本は国土の70%を森林山野が占める森林国なのですが、特に戦後の工業化政策によって営林事業が疎かにされ、山野は荒れ放置されました。その上、木材を他国から輸入することで他国の自然破壊まで引き起こしています。割箸は年間350億膳が国内消費されますが、国産は僅かに3%程度で、80%は中国から輸入され、中国の砂漠化(注9)の要因の一つとなっています。これが中国割箸が30%〜50%もの値上りをする理由の一つであり、今後はロシア、シベリア周辺の木材が供給源となって来るでしょう。一方我国には伐採出来る杉、ヒノキはまだまだ多くありますが既に廃業してしまった割箸製造者、工場は再生不可能な状態にあります。だからこそ少数の家内工業者の作る杉、ヒノキの割箸を販売し日本の伝統技術を伝承させることが大切です。
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片岡:
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森林の育成にも繋がる、というお話しには目から鱗が落ちる思いがしました。ところで山本さんは武道家としても世界的にご活躍ですが、エピソード、そして求道心の源泉などお聞かせ下さい。
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山本:
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私は昭和13年生れで終戦時は小学一年生でした。14歳の時に武道(空手道)を始め、大学1年で指導員となりました。25歳の時に渡米のチャンスがありサンフランシスコ州立大学に空手の講師として招聘されました。アメリカの大きさと人々の活気を初めて目にし、また東洋文化に興味を持つ様々な人々に接することができました。そして車社会の発達と豊かで文化的な生活に触れ日本とのあまりの差異に驚くばかりでした。大学と街の道場で空手道を指導し、後に有名になった人々と沢山知り合うことが出来ました。小さな日本人が自分の倍以上のアメリカ人に打ち勝つ事が出来たのは真の武道家として立ち向かったからでした。今日のオリンピックや国際試合のように、当時は体重別で対抗するというスポーツとして扱われず、それこそ真剣勝負として認識されていたのです。小が大を制す柔道や空手道が畏敬の念を持ってアメリカの社会に受け入れられたのも礼節をもって闘いに臨むというサムライの精神が彼等に理解されたものと信じております。現在、私は68歳で剛柔流空手道範士9段です。20年以上8段として国内外に於いて普及と指導に努めた後、私の所属する団体IKO国際空手道会本部、IKO全日本空手道会本部より承認されました。この武道に入門以来、既に54年間、時間の許す限り世界各国に於いて、その普及に努力して来ました。私の信念は死ぬまで鍛練を続けること、常に1番に成る事、人間一生勉強であると言う事です。自分は他人とは違います。同じになることは出来ません。似せる事、それを超える事以外ありません。日本の武道はあくまで伝承です。古くから先達が伝えた事の中には理屈に合わない、体型に合わない矛盾が沢山ある中で、自分なりに伝統と技をその精神と共に消化して行く事が最も大切と考えています。特に失われつつある礼儀は武道や他の厳しい修行の中に作法として残されています。私たちの修養訓の中に、
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一、 |
目上(年長者)の者を敬うべし |
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一、 |
礼儀作法を正しくすべし |
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一、 |
日本古来の伝統たる尚武の気風を尊重すべし |
がありますが端的にこれらを表しています。
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片岡:
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素晴らしい修養訓ですね。最後に空手道の国際的な活動についてご教授下さい。
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山本:
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今世界中に於いて普及されている空手道はその原型をまったく変えて伝わったものも沢山あります。中国の太極拳、少林寺拳法、工夫(かんふう)、韓国のテコンドー、タイのムエタイなどが営利主義からミックスされ、特に我国に於いて混合格闘術としてTVにて大盛況のK1やプライドなど何でも有りになってしまいました。もちろん地道に正しく昔ながらの武道としての空手道を普及指導させている人々も多数おります。道と技の違いは、精神面を重視する道と技術を重視する技(術)との差でもあります。所詮、日本の武士道は我国のみに存在する独自の精神です。オリンピックにおいてテコンドーが正式種目となって以来、特に昨年空手道は近い将来ノミネートされる希望を完全に断たれました。空手道の団体には、ヨーロッパを中心に活動するWKC(注10)や独自の動きと団結で活動する極真グループ、日本体協加盟のWUKO(注11)などがありますが、いずれも主導権を握れぬまま前に進みません。国際的な統一認知が無いのが現状です。その最大の要因は柔道と異なり沢山の流派のそれぞれ異なる流儀と内容にあります。但し、アフリカを除くほとんどの大陸に於いて各流儀こそ違いますが、空手道又はそれに類似する武道武術は普及しています。世界統一的な強力なカリスマ性を持ったリーダーのいないことが残念です。
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片岡: |
本日は貴重なお話を有難うございました。日本の伝統や精神文化を大切に守りながら世界的視野で海外との交流をはかり続ける山本さんの姿勢に感銘いたしました。
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−完− |
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インタビュー後記
シックなビジネススーツに研ぎ澄まされた肉体を包み苛酷なスケジュールをこなす山本さんには、老舗の暖簾を守る経営者としての企業倫理感と武道家としての威厳が漂っておりました。また地味な仕事着と厳つい武道着というTPOセンスも素晴らしく、それこそ神田の『粋な旦那衆』に融け込んでしまいそうな気さくさと優しさが同居しております。その山本さんもプライベート・タイムでは真っ白なロールスロイスを駆りカジュアル・ルックが映えるダンディーなシニアでもあります。
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聞き手
片岡 秀太郎
1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。 |
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脚注
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注1 |
箸勝本店
http://www.hashikatsu.com
創業 明治43年
住所 東京都千代田区神田3-1-15
電話 03-3251-0840
営業 9:00〜18:00(休み 日曜・祝日・第二第四土曜日)
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注2 |
真魚箸は魚を料理するときに使う箸で、『九州国立博物館』 http://www.kyuhaku.jp の『西都太宰府』データベースにて王城神社の真魚箸神事の模様を放映している。同博物館のサイトのアドレスはhttp://www.kyuhaku.jp/dazaifu/archives/09.html
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注3 |
久兵衛 故 今田 壽治が1936年銀座に開業した寿司店。ホテルオークラ、帝国ホテル、ニューオータニ、京王プラザ等に支店がある。
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注4 |
吉田 茂(1878-1967)。第45・48・49・50・51 代内閣総理大臣。大の美食家として有名。『久兵衛以外のすしは食わぬ』と言うほど今田の寿司に惚れ込んでいた。
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注5 |
鮎川 義介(1880-1967)。実業家、日産コンツェルンの創設者。母は井上馨の実姉の長女。父 鮎川弥八(10代目)は旧長州藩士。
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注6 |
浅野 総一郎(1848-1930)。実業家。御茶の水での水売りから出発。コークス、コールタールの廃物利用で儲け、浅野セメントをはじめ、浅野造船所(現JFE)などを設立。『明治期のセメント王』と呼ばれる。
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注7 |
北大路魯山人(1883-1959)。京都府生まれ。本名は房次郎。芸術家。稀代の美食家として知られ、自ら『美食倶楽部』、『星岡茶寮』などの料亭を創業。
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注8 |
奈良県下市町は割箸の産地として有名で同町のホームページには割箸に関する詳しい記述がある。
http://www.town.shimoichi.nara.jp/mati/sangyou/sangyou_syousai.htm
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注9 |
中国全土の27.3%の土地が砂漠化し、約1.7億人がその影響を受けている。また砂漠化は年平均2,460ku(東京都の1.1倍)の速度で拡大進行している。参照 緑資源機構のホームページ
http://www.green.go.jp/gyoumu/kaigai/03.html
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注10 |
world karate confederation 1996年設立 President MSci. Marko Nicovic
http://www.wkc-org.net/
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注11 |
World Union of Karate-do Organizations 1970年設立 President Osvaldo Messias de Oliveira
http://www.wuko-karate.org/eng/
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(敬称略) |
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片岡秀太郎の右脳インタビューへ |