米国連邦準備制度理事会(FRB)は、11月3日の連邦公開市場委員会(FOMC)で量的金融緩和第2弾(Quantitative
Easing2,「QE2」)を決定した。その主たる内容は、より力強い景気回復を促し、物価上昇率を(物価安定という)FRBの使命に合致した水準に確保するため、本年11月から来年6月までの8ヶ月間に市場から6,000億ドル(約48兆円)の長期国債を購入するというものである。FRBは9月21日のFOMCでも不動産担保証券の償還見合い分として、同じく来年6月末までに2,500億ドル(約20兆円)から3,000億ドル(約24兆円)の長期国債を市場から買い入れると決定しており、両者を合せると8,500億ドル〜9,000億ドルもの大量の国債を購入することになる。2009年3月に長期国債、不動産担保証券等を大量に購入したのに続く、量的緩和第2弾となる。
この思い切ったQE2に対しては、米国内外で賛否が激しく論じられている。有力な賛成論者としては、日本に対してもヘリコプターマネー政策を採るように提起したクルーグマン・プリンストン大教授が挙げられる。彼は11月9日付のニューヨークタイムズのコラムにおいて、「QE2は妥当な政策であり、むしろその規模が様々の圧力で小さくなることを懸念する。今後数年間にわたって、インフレ率を高目に維持することにより、人々の先行き見通しを変化させ、現金保有の誘因を減らすことが米国の経済成長、失業率低下のために必要である」との主張を展開している。
これに対してフェルドスタイン・ハーバード大教授は、次のような反対論を提起している。「QE2は失業率低下をもたらす可能性は若干あるが、全体としては世界経済を再び不安定に陥れる資産バブルを作り出す、リスクの高い危険なギャンブルである。大量の流動性供給は、銀行に過剰準備を積み上げさせ、これによる米国長期金利の低下はドルの対外価値を引き下げ、国際商品価格を上昇させる。また、もしQE2の効果により米国経済が成長し始めるようなことがあった場合にも、銀行バランスシート上の巨額の現金準備が、FRBの出口戦略を困難にするであろう。バーナンキFRB議長がQE2を主張する論拠は、ポートフォリオバランス理論であると言われている。これは、FRBが長期国債を買うことにより、投資家は他の資産、特に株式への投資を増すことになり、株価の上昇が家計の保有資産価値の上昇を通じて、個人消費の増加要因となるという考えである。 しかし、バーナンキ議長がQE2を示唆する発言をした結果、株価は既に10%上昇している。さらに株価が上昇することが期待できるであろうか。もう一つのQE2効果は長期金利の低下であるが、住宅価格の低下が続いているため、住宅ローン金利が下がっても住宅投資改善の効果は限定的である。大企業は多額の現金を既に保有しているが、投資機会が不足している。小企業は銀行から借入れ出来れば、投資を増加することが想定されるが、銀行は過剰準備はあるが、資本が不足しているため、貸出に応じることが出来ない。要するにFRBのQE2では経済の活動レベルを引上げることは出来ない。今行動を起すべきは、大統領と議会である。住宅借入超過に苦しむ家計を助け、企業に対しては増税リスクを除くことが重要である。そして、中長期的には財政赤字縮減に努めることが要請される。」
また、FRB内部においてもウォーシュ理事のように、「ドル安や商品価格上昇が最終財の価格に転嫁されるような場合には、たとえ失業率が高止まりしている場合でも、QE2を見直す理由になる」として留保を付ける向きもある。
このようにQE2については、有力な学者のなかにも批判的見解が見られるが、FRBの政策決定過程においては想定される批判に関してどのような討議を行ったのであろうか。FRB内部での討議を推測できる資料としては、カンザスシティー連銀シンポジウムにおけるバーナンキ議長の講演(8月27日)、前回(9月21日)のFOMC議事録およびダドリー・ニューヨーク連銀総裁のニューヨーク市立大学での講演(10月1日)があるが、ここでは最も詳細かつ多面的に議論を展開しているダドリー・ニューヨーク連銀総裁の講演を取り上げる。ダドリー講演の要旨は次のとおりである。
「現在、FRBは正式なインフレ目標を持ってはいないが、FOMCとしてはインフレ率の長期予測というかたちで個人消費支出(PCE)デフレーターでみて1.75%〜2.0%の水準を示している。これに対し、足許の水準は前年比1.4%に止まっている。この低水準で、かつ低下傾向のインフレ率は、次の理由でリーマンショックからの景気回復を止らせている。第一に、この低インフレ率は債務削減を困難にし、ひいては家計のバランスシート調整を遅らせている。次にこの低インフレ率はインフレ期待を引き下げ、将来の現実のインフレ率を低下させる効果を持っている。さらに、このインフレ期待の低下は実質信用コストを増大させる。したがって、ゼロ金利水準の下でのインフレ期待の低下は、実態的には金融引締めと同じ効果をもたらしている。こうした状況の下では、FOMCとしては物価安定という責務を果たすために明確で断固たる決意を表明しなければならない。これを受け、9月21日のFOMCでは、経済成長と物価安定というFRBの二つの使命を考慮して設定したインフレ率長期予測の水準に対比して、現行のインフレ率は幾分低いということを明確に表明した。FRBは、こうしたインフレ期待形成への働きかけという戦略に加えて、そのバランスシートの拡大(=中長期国債の購入増加)を通じて経済に刺激を与えることにより、インフレ率の望ましい水準への誘導が可能であると考えている。このバランスシート拡大政策に関しては、@長期金利水準と経済活動に影響を与えるためどの程度の長期国債を購入すべきか、A将来の金融政策遂行に負担となる点は何か、との課題があることはよく認識しており、現在真剣な検討を行っている。第1点については、最近の経験に基づいて、5,000億ドルの長期国債購入は短期政策金利の0.5%〜0.75%引下げと同等の効果を持っていると判断している。次に、この長期国債購入が政策効果を最大限に挙げるためには、その枠組が市場参加者にとって明確かつ、信頼できるものである点も重要であると考えている。そのうち、FRBが適切なタイミングで出口戦略を実施できるかどうかが最も注目されている。
さらに長期金利の低下が、経済活動にどのような影響を与えるかに関しては色々な意見があることもよく承知している。FRBが長期金利のさらなる引下げに成功したとしても、それは経済活動に何の影響も与えないと主張する向きもある。つまり、‘FRBは絆を引張ることは出来るが、押すことは出来ない’という主張である。これはあまりにも悲観的な見方ではないか。金利低下の需要持ち上げ効果は、バランスシート制約が厳しい状況下では、そうでない場合に比べ多分低いであろう。しかしゼロではない。私はその効果は、なお相当大きいと信じている。長期金利の低下は、住宅・株式の価格上昇をもたらし、家計に正の資産効果を与える。特に住宅ローンの低利借換により、家計の消費支出は増加するであろう。もちろん、この面でも家計のバランスシートが改善しており、住宅ローン金利低下を活かして効率的に借換えを進めることが出来れば、政策効果はより強力に発揮されるであろう。企業金融の側面でも、長期金利の低下は資本支出を増加させる効果を持つことは期待できよう。
FRBのバランスシート拡大を検討する際に、二つの制約要因があることは十分認識している。一つはFRBの長期国債大量購入がインフレ期待を暴走させ経済を混乱に陥れるというリスクであり、財政赤字が増大している現状ではその惧れは特に大きいであろう。バランスシート拡大からの出口戦略をうまく進めるうえでは、FRBはこの政策の目的・方法について投資家の信頼を十分に得ておくことが最も重要である。市場からの流動性の吸収に関しては、FRBは様々の手段を有しており心配は不要である。また、国内外に、このバランスシートの拡大が財政赤字のファイナンス手段であると受け取られる可能性がある点についても十分念頭においている。こうした見方は根本的に誤りであると言明している。FRBはその政策目的を達成すれば、財政赤字の状況如何にかかわらず、この政策を中止する。
二つ目の制約要因は、このバランスシートの拡大が資産と負債間の償還期間ミスマッチの増大を通じて、FRBの金利リスクを増加させるかも知れないという懸念である。基本的にFRB負債の大宗は無利息の準備預り金である一方、資産は大部分が長期債券であるので問題は生じない。確かにFRBがインフレ期待の醸成に成功すると、長期金利が上昇するので、出口政策として最終的に長期国債を売却すると大幅な損失が発生する。エコノミストのなかにはこの損失発生がFRBの独立性に悪影響を与えると主張する向きもあるが、我々はいかなる時も強い決意を持って我々の使命達成に努めているので、そうした懸念は全く無用である。
9月21日のFOMCでは景気回復を支援し、インフレ率をFRBの職責と接合的な水準に時間をかけて戻していく必要があれば、追加的に金融緩和を行う用意がある旨言明していた。現時点(10月1日)でも、失業率とインフレ率の現水準およびFRBの想定する水準へ収斂していくとの見通しも私には受け入れ難いと考えている。さらにこの状況が長引き、現行の資源の遊休状態と反インフレ圧力を放置しておけばおくほど、先行き大きな衝撃に見まわれ、FRBの目標水準からの乖離の度合が一段と強まり、一層明白なデフレに近づいていく惧れが大きいとみている。我々はそれほど大きくない負担で追加的な刺激効果をもたらす政策手段を有している。従って、もし、あまり遠くない将来に雇用とインフレの双方ともより望ましい状況になるとの自信が持てないのであれば、追加的な政策を取ることが妥当であるというのが私の結論である。」
また、バーナンキ議長は11月4日付のワシントンポスト紙に寄稿して、以下のように今回の政策決定を説明している。「今回の政策措置は住宅金融面で好ましい効果をもたらすであろうし、株価の上昇を通じて米国経済に好循環を引き起こすであろう。この政策がマネーサプライを不必要に増大させ、その結果深刻なインフレを引き起こすとの批判があることも承知している。私はこうした批判は妥当しないと考えている。また、将来適切な時点でインフレ圧力を吸収する政策手段を十分備えているとの自信を我々は持っている。しかし、FRBのみで、この国が直面する問題を解決することは出来ない。問題解決に向けて、中央銀行・議会・行政府・規制当局および民間部門が手を携えて努力していくことが必要である。しかし、FRBは雇用を増大させ物価安定を持続させるとの特別な使命を持っているので、それを果たしていく。」
私は、FRBが与えられた使命を断固果していくとの強い決意を持っている点は高く評価する。しかし、政策効果の発現過程およびその説明責任の果し方に関しては、以下の疑問を持っている。
これらの疑問は上述のバーナンキ議長およびダドリー総裁の講演ならびにFOMC議事録を精読しても、なお解消しなかった点を付言しておく。
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長期国債の大量購入は、長期金利低下にはある程度効果があるにしても、それが個人消費および企業投資にプラスの効果をもたらすかどうかは、家計バランスシートの改善状況、企業の競争力、グローバルな需給バランス動向等によって左右され、必ずしも一義的に妥当するものではない。現に、11月10日付ファイナンシャルタイムズ紙では「米国において住宅ローン金利の低下にもかかわらず、家計の財務状態悪化から住宅ローンの低利借換えが進んでいない」と報じている。
長期金利低下効果の限界に関しては、ダドリー総裁も言及しているが、最終的には「自分は効果があると信じている」と述べるのみで、それ以上の説明は行っていない。バーナンキ議長も、株価上昇を起点とする景気の好循環に期待を表明するに止まっている。
ここからは、ダドリー講演を読んでの私の推測になるが、彼は米国が日本と同じようなデフレ状態に陥ることを回避するため、大量の流動性供給(いわゆるヘリコプターマネー)による物価上昇を企図しているようである。ヘリコプターマネーの場合には、彼が期待しているように適度な物価上昇が起こるとは到底考えられず、むしろいわゆるハイパーインフレが現出し、制御不可能な事態に陥るであろう。
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今回の政策が、中央銀行による財政赤字のファイナンスと受け取られることをFRB自身も相当気にしているが、この点に関しても、バーナンキ議長、ダドリー総裁とも「我々を信頼して欲しい」と言うのみでそれ以上の説明をしておらず、市場の信認を得られるかどうか疑問が残る。同様の疑問は、早期に適切な出口戦略が取り得るかについても抱いている。
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さらに、今次FRBの政策に対しては、中国、ブラジル等の新興国のみならず、ドイツ等の先進国からも批判の声が上がっている。中国からの批判は、人民元切り上げ回避に対する自国への責任追及をかわすことが主目的とみられ真剣に考慮するに値しないが、その他の新興国にとっては、米国からの過剰流動性流入に伴う自国経済に対する撹乱効果および国際商品価格の上昇等は、自国の着実な経済発展にとってマイナス要因となり得る点は理解できる。ドイツの批判は経済観の相違と片付けることもできるが、米独間の意見の喰い違いは過去に何度も国際金融市場に混乱をもたらしており、日本への悪影響も懸念されるところである。何よりも気になるのは、上述のダドリー講演において、米国の政策変更の他国経済および国際金融市場への影響に関し、一言も言及していない点が気になるところである。
以上、いろいろと懸念を表明したが、11月3日のFOMC決定は、長期国債購入額が一時噂となった2兆ドルから大幅に縮小されたうえ、適時適切に見直すとの条件が付された(これは永年FRBに勤務し、先般副議長を退任したコーン氏の忠告によるとの報道がある)ことから、一安心はしているが、今後の政策効果の波及には注意を払い続ける必要があると思っている。
以上