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第87回  『 右脳インタビュー 』  (2013/2/1)

志茂田 景樹さん
 
絵本作家 児童書作家 小説作家 読み聞かせ隊長

  

1940年静岡県生まれ(本名 下田忠男)。中央大学法学部卒。1976年小説現代新人賞を受賞『やっとこ探偵』。 1980年直木賞受賞『黄色い牙』。1984年文芸大賞を受賞『気笛一声』。1994年第日本文芸家クラブ特別大賞受賞。志茂田景樹事務所 代表取締役、静岡県観光大使。

主な著書
『黄色い牙』 講談社 1980年
『汽笛一声』 プレジデント社 1983年
『蒼翼の獅子たち』河出書房新社、2008年 - 映画『学校をつくろう』原作 他
 

 
片岡:

 今月の右脳インタビューは志茂田景樹さんです。それではご足跡をお伺いしながらインタビューを始めたいと思います。
 

志茂田

 大学を出て、最初は営業畑の仕事、次いで探偵社や興信所、そして生命保険の調査員になりました。生保が調査するのは生命保険に入って2か月以内に死亡した短期死亡というものです。保険に入っている人は、全国どんな山奥にも、岬の果てにもいて、その多くは観光地でもなんでもないただのうんと辺鄙な場所です。そんなところにも調査に行くのですが、それが何となく新鮮で、日本にはこんなところがまだあったのか…。日本を細かく見ている感じです。仕事でなければ絶対に行くことはなかったですね。そういう生活の中で、夜行列車や宿で、洋の東西を問わず、小説や文芸雑誌を読み漁りました。新人賞の受賞作品が雑誌に載っていて、こういう形で作家になる道があるのだ、このくらいの作品だったら書けるのではないかという思いから応募を決めました。そして少しでもメディアに関係あるような仕事、建設関係の業界紙や「週刊TVガイド」の取材記者等に就きました。「週刊TVガイド」や「女性自身」の人間シリーズではアンカーライターを勤め、7年目に新人賞を受賞しました。途中で諦めなかったのは、後半はどこに応募しても候補作にいつもノミネートされ、少しずつ力をつけているという自覚があったからだと思います。普通7年間もかかると、多くは諦めてしまうそうです。苦労したお蔭で、受賞後1年で作家専業となり、4年後に直木賞受賞しました。
 またファッションにも関心があり、山本寛斎のファッションショーにも出たり、デザイナーズブランドも着ていましたが、そのうち権威を着ているのだ、着せられているのだという意識が強くなってきました。作家ですので、宮仕えの人よりも自分を解放できます。自分が着たいものを着て、自分が心地好い格好をする、それが今のファッションに繋がっています。しばらくすると僕のファッションが注目されるようになり、週刊文春が半年間の密着取材でグラビアの大特集を組み、その後、TVのバラエティー番組のオファーが殺到しました。タレントさんは仕事だから…という意識があると思いますが、僕はバラエティーに出ても普段の自分のまま、仕事と思ったことはありません。小説家というのは、例えば、ドロドロした人間模様があれば、それを心にいったん詰め込み整理して書く仕事、内側に詰めていく作業です。一方、バラエティーは自分をさらけ出す、全く逆のことをやっているわけですからバランスがありました。
 小説を書いていると、例えば「黄色い牙」には主人公が、猛吹雪の中、山中で遭難しかけている仲間を助けに行くシーンがあるのですが、自分が主人公になりきって実際に猛吹雪の中を進んでいるつもりで書いていますので、はたから見ると僕も苦しそうな顔をしていると思います。何行かの描写が、書いても、書いても、気に入らない。それも書く楽しみの一つで、そこ感動があります。
 しかし、シリーズものを、いくつも、いくつも、書いていると、どうこなしていくかという状態になり、書いている感動が湧きません。それがだんだん苦痛になって、バラエティーも何となく面倒だなと思うようになってきました。そこで、自分が書きたいものを書く、そして素晴らしい才能の持ち主を見つけて世に出したいと1996年にKIBAブックという出版社を立ち上げました。
 

片岡:

 出版社にとっては、大変な時期の起業ですね。
 

志茂田

 1996年は日本の出版業界がマイナス成長に転換した年です。そんな時期に、武士の商法的に立ちあげたのですから…、まあ潰れずにやっていますが…。
 さて、KIBAブックを立ち上げ、自分たちで営業もしなければなりませんので、北海道から沖縄に至るまで、全国の本屋さんでサイン会を始めました。そんな時、会場にいつも子供がきているので、読み聞かせでもやってみようかなという思いが生まれてきました。これはきっと母親から読み聞かせをいっぱい受けて育って、その時の記憶が今でも心地よいものとして刻まれていて、どこかでそれがしっかり結びついたものだったと思います。1998年10月、福岡のリブレ天神という百貨店のなかの書店でサイン会を行った時、隣が玩具売場だったこともあり沢山の子供が集まっていました。「これは読み聞かせだ」と書店の方に絵本をドサッと積んでもらって、その中から「三匹の子豚」と新美南吉の「赤いろうそく」を選びました。「三匹の子豚」は僕が母にせがんで何度も読んでもらった本だったそうです…。ふつう子供たちがいると騒ぐのですが、この時はシーンとして、気が付くと大人も物語の世界に入り込んでいる。そして読み終えた後、僕自身が清々しい気持ちになっていました。子供たちが「よかった」「またきてね」と声をかけてくれる。大人もそうです。一人の中年女性が「実はとても嫌なことがあって落ち込んでいたのですが、聞いているうちに元気がでました」と言ってくれました。その時、絵本の読み聞かは、こんな力もあるのか、凄く奥行きの広い世界なのかと驚き、これを続けていこうと、心に決めました。それから、妻と二人で子供たちが卒園した幼稚園から読み聞かせをはじめました。少しずつ読み聞かせの輪が広がり、翌年、「よい子に読み聞かせ隊」を結成、今は30人程になっています。と言っても、規約も何もありませんが…。
 

片岡:

 読み聞かせでは、どんな絵本を読んでいるのでしょうか。
 

志茂田

 2000年に西宮市立河原橋小学校のPTAから「うちの小学校には5年前の阪神大震災で、園児だった子供がたくさんいて、その多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされています。昼間、大型トラックの僅かな振動にもおびえて、とっさに近くにいる見ず知らずの大人にしがみ付く…。夜中にいきなり悲鳴を上げて飛び起きる子供がいくらもいます。そういう子供たちの心の癒しに、絵本の読み聞かせがならないでしょうか」と電話がありました。いつもやっているのは、何となく切ない可哀想な場面が出るものが多いので、明るい童話、面白い絵本にした方がいいのかとも考えたのですが、そういう先入観を持たずに普段やっている通りにやることにしました。凄く泣いた子も沢山いたのですが、読み聞かせが終わった後、そういう子たちの中に、いつまでも僕らの周りから離れない子たちがいました。この時、成功したと思いました。よい子に読み聞かせ隊は「理屈とか関係なしに、物語の感動を通して、命がどんなに大切で、自分の命も、他人の命も、同じようにかけがいのないものなのか、そして生きることがどんなに素晴らしいことか、それが伝わる絵本を読み聞かせしよう」と方針が定まりました。
 

片岡:

 被災地や避難所を積極的に訪問されているそうですね。
 

志茂田

 3.11の翌月には栃木県小山市県南体育館の避難所など三か所を回りました。この時はチェロ、バイオリン、キーボード、紙芝居のメンバーも含めた6、7人でいって、ミニコンサートも入れながら読みかせをしました。そのあとプレゼントに持っていっていた絵本等に子供たちの名前を書いて渡しました。小学校5,6年生くらいの男の子に、その子の名前に「今が出発点」という言葉を添えて渡した時、その子は1,2秒それを見て、「僕これからどうなるのかな」とつぶやきました。
 中越地震や玄海島地震の避難所でも、「これからどうなるのかな」といった言葉を聞いたのですが、これは「また前のように家族と暮らせるのかな」「学校へ行けるのかな」「友達一緒に遊べるのかな」というような「どうなるのかな」です。
 しかし、小山の県南体育館で男の子が漏らした「これからどうなるのかな」は、自分の体が5年後、10年後、どうなるのか、そういう呟きです。心の奥底にどっかり根を下ろしてしまった強い不安が言わせた言葉です。それは響きでわかります。普段は「大丈夫だよ」なんて、ポンと肩を叩くのですが、あの時は2,3秒言葉がでませんでした。「あまり心配しないでいいよ」なんて言い方しましたが、頷いて帰ったけれど、その頷きは、僕に対するサービスでしょうね。そういう風に言ってくれたから…。
 今の小学校5年生はネットも検索するし、放射能に関する知識は凄く持っています。枝野官房長官が「健康にはただちに影響はない…」と繰り返していましたが、そういうことは信じないんですよ。科学的、医学的な根拠を示して大丈夫だとは言っていないのですから。子供は欺瞞を見抜くので本当に不安を持っています。そういう不安を根治することは読み聞かせではできません。活動の限界を強く感じました。それでも子供たちの不安を少しでも取り除くことができるのであれば、やっぱり読み聞かせ活動を続けていく価値があるだろうと思い直したのもこの時で、その後も釜石市、大船渡市、石巻市、気仙沼市…と続けています。
 

片岡:

 震災から1年半以上たちましたが、被災地の方々の変化は感じますが。
 

志茂田

 1年たって被災地に人たちはずいぶん明るくなりました。去年訪問したときも、喜んで迎えてくれ、笑いもあったのですが、その笑いを直ぐふっと消すような感じがありました。でも1年たって、多くの人が受け入れて気持ちの整理がついたのかもしれません。そうすれば、人間は、やり直しだ、復興だ、という方に向かいます。だから明るいんです。笑い方も、1年前と今年では耳で聞いてわかるくらいに違います。それはとてもよかったけれど、被災地の状況みると、瓦礫はきれいに整理されているけれど、離れた向こうの方に山ができています。それを片付けるのには、まだまだ長い時間がかかるでしょう。やっぱりそれは被災地の人、そこの県だけでは無理でしょうね。手を差し伸べられなければ…。
 

片岡:

 志茂田さんのTwitterも絵本の読み聞かせのような暖かさを感じます。現在フォロワーは24万人を超え大変な反響を呼んでいますね。
 

志茂田

 Twitterを始めたのは2010年の4月28日です。初めは講演会や出版の告知だけでした。そのうち140字以内で、何かメッセージとして発信できるのではないかと。その何かというのは、普段漠然と思っていることで、それは絶えず入れ替わっていて、そのままにしておけば過ぎ去ってしまう…。たまたまエッセーの締め切りが迫っていて、何を書こうかなという時に、あ、これを…と浮かび上がってくるのは、そういう漠然と頭の中で思っていたことで、それが文章にするとはっきりしてきます。140字以内でそういうものを発信してみよう、その長方形の枠は広い外の世界を覗く小窓のようなイメージがそのころから生まれてきました。
 

片岡:

 お客さんの反応、息を感じたくて舞台に立つ映画スターも多いとか、Twitterもネットを介してですが、ダイレクトな反応がありますね。
 

志茂田

 僕らは文章の表現者になるのでしょうけれども、こんなこと書いて独りよがりじゃないかなと思うことがよくあるんです。小説であれば、その中の登場人物の誰かの言葉としていうと、それが全てではなく、読者は、こういう考え方もあるんだと思ってくれます。小説全体のメッセージとは違います。ところがTwitterは140字がすべて、端的に書かなきゃいけません。これってお門違いじゃないかなと思って書くこともあります。でも自分自身、こう思っているのだからこれでいいと思って発信したものの反応がいいんですよね。独りよがりかなと思っている事も実際は意外と当たり前のことで、そして、当たり前の事をTwitterの制約の中で書く人は意外と少なかったのかもしれません。そうしたことを発信し始めたらフォロワーが続々と現れ、そんな中に時々質問がくるようになって、答えているうちに質問が殺到するようになってきました。
 質問してくる人には心に悩みを抱えている人も多くいます。質問がくると、その短い文面の中から、その人は、どういう状況におかれて、どういう生活しているのかなど、イメージしながら、「あ、この人の場合はきっとこういうことなんじゃないかな」と返事をしています。ですから、その質問者のイメージが違えば同じような質問でも、全く違う答えとなります。それでいいんじゃないかな。物事には正解というものはあまりないんじゃないかな。たまたまこの質問者をイメージしてこの返事を出した。その返事が質問者の心を打った。うなずけたというのであれば、それで、責任を果たせたかなと思います。気休めというと語弊があるかもしれませんが、そういうことで癒されるんでしょうね。そしてもう一つは、自分が内心こう思っていたことと、僕の返事が「あ、同じじゃないか」、その二つの役割が殆どではないかと思います。
 

片岡:

 貴重なお話を有難うございました。
 

 

〜完〜

 

インタビュー後記

 Twitterはとても気軽に小窓に文字を書き込むことができますが、反面、フォロワーの数を忘れてしまうことがあります。「もし目の前に1万人の人がいたら、沢山のTVカメラがあったら、その発言ができますか?」と、インターネットに詳しいPRの専門家 熊澤啓三さんは、Twitterについて、クライアントにアドバイスするそうです。志茂田さんは、何のためらいもなく「はい」と答えるでしょう。
 そんな暖かい志茂田さんのTwitterですが、それでも、冗談というよりも悪意があるようなリプライもたまにはあるそうです。例えば、「死ね、死ね、死ね、死ね…」というようなものです。そういうものに対しては、「なかなかいいリズムを持っていますよ。言葉をもっときれいにすると、そのリズムが生きてくるんじゃないですか」と、正面から反論するというような返し方をしないことだそうです。
 最後にもう一つ。志茂田さんの旅日記の一節をご紹介致します。
「さようなら、みんな。また会う日まで元気でな。そのとき、みんなは大きくなってしまって解らないから、そっちから声をかけてくれよ。この頭のまんまだから。避難所巡りは随時、避難所がある限り続けます。これからも旅日記をよろしくね」

 

  

聞き手

片岡 秀太郎

1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。クライシス・マネジメントとメディアに特化したアドバイザリー事業を展開

 
 

   
   
   
   
 


右脳インタビュー

 

 

 

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更新日:2013/03/01